この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年12月)
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}北村(きたむら) 透谷(とうこく)
北村透谷
誕生北村 門太郎(きたむら もんたろう)
1868年12月29日
日本・相模国足柄下郡小田原
死没 (1894-05-16) 1894年5月16日(25歳没)
日本・東京府東京市芝区
墓地高長寺(神奈川県小田原市)
職業評論家
詩人
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京専門学校(現・早稲田大学)中退
活動期間1891年 - 1894年
ジャンル評論
詩
主題近代的自我の確立
文学活動ロマン主義
代表作『蓬莱曲』(1891年、詩集)
『厭世詩家と女性』(1892年、評論)
『人生に相渉るとは何の謂ぞ』(1893年、評論)
『内部生命論』(1893年、評論)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治元年11月16日〉- 1894年〈明治27年〉5月16日)は、日本の評論家・詩人。本名は北村 門太郎(きたむら もんたろう)[1]。明治期に近代的な文芸評論をおこない、島崎藤村らに大きな影響を与えた。北村透谷生誕之地
小田原市浜町3-11-14
相模国小田原(現・神奈川県小田原市)に生まれた。幼少時代、両親から離れて厳格な祖父と愛情薄い継祖母に育てられ、のちに神経質な母親の束縛を受けたことが性情の形成に大きな影響を与えたといわれる。
1881年に東京数寄屋橋の近くに移住。東京専門学校(現・早大)政治科に入学、東京の三多摩地方を放浪して壮士たちと交わるが、民権運動が過激になり離脱。1888年に洗礼を受け、同年、民権運動家石坂昌孝の娘ミナと結婚。翌年、自己の暗い内面と愛と自由をうたった長編叙事詩『楚囚之詩』を刊行。
『厭世詩家と女性』(1892年)を発表して文壇に登場。1893年には島崎藤村、星野天知らと雑誌「文学界」を創刊し、同人たちの浪漫主義運動を主導したが、そこには、例えば「恋愛は人生の秘鑰なり」「男女相愛して後始めて社界の真相を知る」と述べた『厭世詩家と女性』にみられるような恋愛至上主義的傾向がみられる。また、文学は世俗的な功利を求めず、人間性の深い真実をこそ求めるべきとした(「人生相渉論争」)。『内部生命論』では、内面的生命における自由と幸福を重んじた。
『人生に相渉るとは何の謂ぞ』、『内部生命論』、『漫罵』(全て1893年)などの評論をたてつづけに発表したが、理想と現実の矛盾に苦しみ、1894年、自殺。 相模国小田原唐人町で父・北村快蔵、母・ユキの長男として生まれる。祖父の玄快は小田原藩の藩医であったが明治維新のあおりを受けて没落し、父の快蔵は透谷の生まれた後、新政府の官立大学である昌平学校に入学・卒業して役人となる[2]。 1873年(明治6年)、弟の垣穂(かきお)が生まれる。弟は1879年(明治12年)に元小田原藩士族の丸山良伯の絶家を継ぎ丸山姓となり、のちに丸山古香
経歴
1878年(明治11年)春、祖父の玄快が倒れ両親と弟が小田原に帰郷する。父は足柄上郡役所の役人となる[1]。
1881年(明治14年)、一家で東京京橋区弥左衛門町に移住する[注釈 1]。父は大蔵省に戻り、母は丸山名義で煙草店を始める。透谷と弟は泰明小学校に転入する。この頃活発であった自由民権運動に強く感化される[1]。
1883年(明治16年)5月頃、自由民権運動の政客である大矢正夫
と知り合い、大矢らを通じて秋山国三郎や自由党員であった石坂昌孝の知遇を得る。石坂の長男である石坂公歴(まさつぐ)とも親交を結ぶ[1]。9月、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科に入学[注釈 2]。翌年、同じ政治科に入学してきた宮崎湖処子と知り合う[1]。1885年(明治18年)5月、自由党左派の大井憲太郎らが朝鮮での革命を計画する(大阪事件参照)。6月、大矢正夫も計画に加わり、活動資金を得るための強盗を企図、透谷も参加を誘われるが悩んだすえ運動を離れる。夏、石坂昌孝の長女ミナと出会う[1]。
1887年(明治20年)、許婚者のいたミナと恋愛関係に陥る。1888年(明治21年)3月、数寄屋橋教会(現・日本基督教団巣鴨教会)で洗礼を受ける。同年11月、石坂昌孝の娘、石坂ミナと結婚[1]。
1889年(明治22年)4月9日、『楚囚之詩』を自費出版するが、出版直後に後悔し自ら回収する[5]。秋頃、イギリスから来日したクエーカー教徒のジョージ・ブレスウェイトの翻訳者および通訳者となり、親交を深める。その影響もあって平和主義の思想に共鳴し、加藤万治らと日本平和会を結成する[6]。
1890年(明治23年)11月、普連土女学校の英語教師となる。弥左衛門町から芝公園に転居する[1]。
1891年(明治24年)2月、芝三田聖坂のフレンド教会で新渡戸稲造夫婦と出会う。5月29日、『蓬莱曲』を自費出版する。6月1日、横浜山手公会堂で「ハムレット」を観劇したときに坪内逍遙と出会い、その後逍遙の元に訪問する[1]。
1892年(明治25年)2月、評論「厭世詩家と女性」を『女学雑誌』に発表、注目される[1]。