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この項目では、政治家について記述しています。造園・都市計画家の同名の人物については「北村徳太郎 (造園家)」をご覧ください。
きたむら とくたろう
北村 徳太郎
1953年
生誕 (1886-05-09) 1886年5月9日
京都府
洗礼1909年
死没 (1968-11-15) 1968年11月15日(82歳没)
職業銀行家、政治家
栄誉佐世保市名誉市民章
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北村 徳太郎(きたむら とくたろう、1886年5月9日 - 1968年11月15日)は日本の政治家、銀行家。 1886年5月9日、京都で生まれる。子供の頃から身体が弱く、ほとんど病床で過ごしたため、幼年時代の遊びは全く知らず、友だちと外で駆け回ったこともなかった[1]。青年期も健康にはならなかった上に、二人の兄が早く死んだ。また一人の兄は16歳で亡くなったので、自分がその年頃になると、ますます死の恐れを感じ、この不安を何とか解決したいと思い悩んだ[2]。生家は浄土真宗だったので、ただ阿弥陀如来に頼れば極楽浄土に往生すると教えられたが、信じることができなかったという[2]。 読書するうちにトルストイの作品に出会い、感動し、聖書を読み始めるようになった。讃美歌も詩として読みふけり、人間の死を希望をもって謳いあげていることに驚き、救いを感じた。徐々に健康はよくなっていった[3]。 1907年21歳で大阪の北浜銀行に入行。 当時の頭取は岩下清周であった。銀行の先輩山本節二郎に誘われて、日本キリスト北教会に通い出した[4]。1909年、22歳で受洗した。ある時、大阪教会の宮川経輝が説教の中で、岩下を「大悪人大罪人」と罵ったため、それを聞いた徳太郎は説教後抗議に行った。風評でそのようにしゃべった宮川は慌てて失言を取り消した[5]。 3年後、同じ教会に通う見立頌子(みたて しょうこ)と結婚した。北浜銀行で岩下の鞭撻を受けて昇進し8年間勤めたが、銀行は倒産した。1915年神戸の鈴木商店に入社した。金子直吉という大番頭に才能を見込まれた徳太郎は、29歳の時播磨造船所の三役につかされ、翌年支配人を任せられた[6]。 播磨に暮らし始めてから、自分の家で、妻と妹と2、3人の信者とで家庭礼拝を毎日守った。のちには出席者が30人にも増えた[7]。 1921年35歳の時、佐世保商業銀行の取締役に就任した。佐世保商業銀行は後に佐世保銀行を合併して親和銀行となり、徳太郎は頭取になった[8]。 政治は嫌いであったが、使命と感じて戦争直後に立候補した。「政治は道義なり」と力説するのみだったが、1946年の第22回衆議院議員総選挙で、修正資本主義を掲げて長崎県全県区より日本進歩党から出馬し初当選(翌年から選挙区は長崎2区)。1947年に片山内閣が成立すると、党を代表して、新憲法下第一回の国会で講演を行った[9]。以後1960年まで7回連続当選する。財政・経済通として片山内閣の運輸大臣、芦田内閣の大蔵大臣を務めた。1948年大蔵大臣在任中、佐世保地区における隠退蔵物資等に関する事件で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[10]。 1949年の衆院選後、吉田茂の民主自由党との連携を図る犬養健総裁ら「連立派」と袂を分かち、「野党派」として芦田均、苫米地義三、中曽根康弘、園田直、稲葉修、川崎秀二らと行動を共にする。以後国民民主党、改進党の結成に参加。 1948年以降、日ソ東欧貿易協会 1955年の保守合同で自由民主党に所属し、河野一郎派(春秋会)に客分として参加。1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退した。 1965年(昭和40年)妻の頌子が他界した。1967年(昭和42年)秋、死が遠くないことを感じた徳太郎は、聖書を除いた三千冊の本を佐世保市に寄贈した。若い頃から読書が一番の楽しみであったので大きな決断だった。その時のことを「手塩にかけた娘を嫁入りさせるような、一抹の淋しさがこみあげてくる。しかし残さねばならなぬ本が一冊ある。それは聖書である。一書の人といわれた巨人のように、私は今後一書からあらためて、人生そのものを学びとりたいと願っている」と書いた[11]。1968年(昭和43年)11月15日佐賀県嬉野温泉の凱風荘にて85歳で急逝した。凱風荘は難事を解決したお礼としてある人から贈られたものだったが、徳太郎はこれを親和銀行に寄付して職員の保養所にしていた[12]。
生涯
生い立ち
会社員時代
政治家時代
晩年
略歴
1886年5月9日 京都市上京区にて出生。生家は浄土真宗を信仰していた。
1907年 大阪の北浜銀行入社。傍ら関西大学に通う。頭取岩下清周の薫陶を受け、貸付課長まで昇進した。
1909年 関西大学専門部卒業。また同年にキリスト教に入信する。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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