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本名が「北村弘一」の俳優の「曽我廼家明蝶」、俳優の「北村晃一」、あるいはオウム真理教信者の「北村浩一」とは別人です。
きたむら こういち
北村 弘一
プロフィール
本名木村 一[1]
(きむら はじむ)[2]
性別男性
出身地 日本・大阪府[3]
死没地 日本・東京都新宿区
生年月日 (1931-12-18) 1931年12月18日
没年月日 (2007-10-02) 2007年10月2日(75歳没)
血液型A型[4]
職業声優、俳優
事務所マウスプロモーション(最終所属)[3]
公称サイズ(時期不明)[5]
身長 / 体重173 cm / 56 kg
声優活動
活動期間1960年代 - 2007年
ジャンル吹き替え、アニメ、ゲーム
俳優活動
活動期間1959年 - 2007年
ジャンルテレビドラマ、舞台
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北村 弘一(きたむら こういち、1931年12月18日[1] - 2007年10月2日[2])は、日本の声優、俳優。大阪府出身[3]。マウスプロモーションに所属していた[3]。
娘は、女優の木村奈津子[2]。 1945年、旧制中学2年生の時に終戦を迎え、翌年に当時避難していた満洲国から日本へ帰国[6]。その後は日本の学校に転入したが、全てに対して凄く懐疑的になり「これからどういう風に自分の人生を求めていけばいいのか」と思い、哲学研究会、社会研究会を結成し、勉強する[6]。 その後、中々これだというものが掴めないまま文芸部にいたが、学校創立記念日に芝居をすることになり、その町あった劇団で基礎を学ぶ[6]。そこで芝居の面白さを知り、その劇団に誘われて入団した[6]。 早稲田大学[5]文学部演劇科に進学し、学生劇団に所属[6]。その後、新演劇研究所[7]を経て新劇の劇団に入団し、舞台俳優として活動[6]。 文化放送に入所した際、朝の連続ラジオドラマのアシスタントディレクターとして就職していた学生劇団の後輩に「そんな情けない暮らしをしているなら、ラジオドラマに出してあげる」と言われる[6]。当時所属していた劇団はマスコミの仕事を禁止していたが、「朝の短い時間だから、名前を変えれば大丈夫」と言われそのラジオドラマにレギュラー出演したが、後にこの件がバレて劇団を退団[6]。なお、この時に出演のため付けられた偽名がそのまま芸名となった[6]。 以降はプロダクションに所属して『月光仮面』の警官役などテレビドラマに出演[6]。その後、映画の生放送のアテレコに参加して声優としての活動を始める[6]。 それまでに所属は、劇団ぶどうの会[8]、プレイヤーズ・センター[7]、劇団七曜会[3]、土の会[3]、俳優企画[9]、東京俳優生活協同組合[3]と変遷。 1969年、江崎プロダクションの創立に参画。同事務所がマウスプロモーションとなった後も所属した。 2007年頃から持病が進行し、『ザ・シンプソンズ MOVIE』の吹き替えのオファーが来た時点でスタジオ入りできないほどに悪化していたため、伊井篤史が代役を務めた。 2007年10月2日、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去。75歳没[2]。 役柄としては、誠実な老人役、執事役、老博士役で知られており[10]、生前のサンプルボイスでも「若い頃から老人の役をやっていたが、いつの間にか自分もそういう年齢になった」と語っていた。1997年頃では「京都や鎌倉などのお寺めぐりに凝っている」と語り、「年ですねぇ」ともコメントしていた[11]。 ディズニーキャラクター・スクルージ・マクダックの専属声優であった。 マウスプロモーション付属養成所では講師をしており[12]、生徒に、最初に入団した劇団の研究生で教えてもらっていた朗読を教えていた[6]。 北村の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。 後任役名作品後任の初出演
来歴
人物
後任
梅津秀行イピ『ラマになった王様』『ラマだった王様 学校へ行こう!』
関根信昭木耳持兼『忍たま乱太郎』17期
伊井篤史スクルージ・マクダック[注 1]「ディズニー」『ディズニー・シンク 早押しクイズ』
チャールズ・モンゴメリ・バーンズ社長『ザ・シンプソンズ』『ザ・シンプソンズ MOVIE』劇場公開版
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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