北木石
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北木石(きたぎいし)とは、日本瀬戸内海の一島である北木島行政上の岡山県笠岡市北木島町(旧・小田郡北木島町。江戸時代における備中国小田郡北木島、幕藩体制下の倉敷代官所北木島)から産出される、花崗岩の総称である。

白色を主とした中粒の黒雲母花崗岩で、「中目」、「瀬戸赤」、「瀬戸白」、「サビ石」の4種類がある[1]

しかし、現在も採掘を継続しているのは、「中目」と「瀬戸赤」の2石種のみ。かつては、127箇所もの採石場が北木島に存在していたが、安価な外国材や他産地の国内材にシェアを奪われ、北木島の採石業は衰退の一途を辿った。今では、「中目」1社/120社、「瀬戸」1社/7社となり、生き残った2石種をそれぞれ1社ずつが採掘継承している。その中でも、「中目」の歴史は古く、北木石材組合の初期メンバー唯一の生き残りで、採石場の歴史は100年を超える。

明治中期-昭和初期の戦前にかけて、多くの歴史的建造物や著名人の墓石などに用いられた偉大な功績を持つ北木石。その反面、昭和中期-後期に採掘された山肌近くの荒石が、石不足のため、墓石材として全国に出回ったことで、含有鉄分のサビによる変色や風化が起こりやすく悪評をかった負の歴史も抱えている。全国各地の墓地や霊園で見られる、赤く変色した墓石に北木石が多いのはそのためで、酷いものはサビ止めで用いるリン酸処理の後工程が省かれた状態で建立され、異常な(化学反応した)赤みを帯びている墓石もある。
特徴北木石は白い緻密な花崗岩

断層によって比較的に大きな固まり(北木島全体が花崗岩)として誕生したため、マグマにかかる力が平均していたのか、結晶化合体の分布状態は均一である。また、節理が発達し、石の目もよく通っているので、長さ10メートル以上の長尺材が切り出せるほか、石に「ねばり」があるため、ノミをよく受けつけ加工性が良いといった特徴がある。昔は、細粒で硬い他産地の石材より、加工し易かったため、石工によく好まれた。やがて、加工技術の発達に伴い、細粒で色濃く硬い石の方が、吸水率は低く経年変化も少ないということで、現在では、一般墓石の主流からは外れているが、墓相においては今でも不動の地位を確立している。

北木島の採石の歴史は古く、有名な大坂城の石垣をはじめ、靖国神社の大鳥居や、天皇陵での鳥居、日本銀行本館、皇族や貴族の邸宅などにも使われている。また、戦前の国民的英雄である東郷平八郎や、歴代総理大臣の池田勇人吉田茂、作家の夏目漱石江戸川乱歩川端康成などの墓地、吉相、墓相にも好んで使用されている。特に、京都を中心とする、近畿地区・京阪神エリアにおいては、建築物以上にお墓での需要が多く、由緒あるお寺の歴代館長のお墓にも代々に渡り、北木石中目が用いられているという実績がある。最近では、経団連会長を務めた御手洗氏のキヤノン株式会社の社墓にも北木石中目が用いられ、高野山に建立されている。

昔から品質の良い大きな石が採れ、海運を利用した物流も発達していたために、国内の道路が整備される以前から販路が全国的に広がっていた。
活躍している北木石
五条大橋
欄干

現在の五条大橋は、昭和34年(1959年)に、国道1号線を通すために、幅35メートル鋼鉄橋として架け替えられたとき、1年余りの論争の末、欄干は北木石を用い、擬宝珠は正保2年(1645年)以来のものが使われて古風を保っている[2]






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弁慶と牛若丸

社団法人京都青年会議所寄贈により1961年に作られた。

北緯34度59分45秒 東経135度46分01秒 / 北緯34.995824度 東経135.766944度 / 34.995824; 135.766944
大谷本廟

境内の石灯籠は、北木石を使っている。



建仁寺

建仁寺の護持会「健和会」は、2014年に迎える開山・栄西800年大遠忌を記念して、2013年11月22日に境内の北門前と開山堂前の2ヶ所石塔を建立除幕した。いずれも北木石を使っている。北門前の石塔は高さ3m、小堀泰厳管長の揮毫で「建仁寺」、開山堂前の石塔は「栄西禅師入定塔」と掘られている[3]
山脇東洋観臓記念碑

1976年3月7日に山脇東洋が日本で最初に観臓した地、旧六角獄舎跡に山脇東洋観臓記念碑を建立除幕した。


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