北朝鮮映画
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開城市内の映画館

北朝鮮映画(きたちょうせんえいが)は、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)国籍を持つ者または北朝鮮の法人によって製作された映画で、ほとんどの場合、朝鮮人の映画スタッフと俳優で構成され、主に北朝鮮国内の映画館等で公開される映画を指す。ここでは日本統治が終わった後、南北分断以降に北側で制作された映画および映画をとりまく状況について記述する。
歴史

日本統治時代の映画については日本映画#朝鮮を参照のこと。
創成期朝鮮芸術映画撮影所

日本統治時代より朝鮮半島の映画会社はソウルに集中していたため、分断後の半島北部での映画製作は平壌で新たに創始された。独立後のソウルで進歩的と言われていた多くの映画人は、次第に左派の政治勢力に取り込まれ、北へ渡った。監督の姜弘植、姜湖、俳優の文藝峰、獨銀麒、羅雄、徐光霽、崔雲峰、金兌鎮、朴学といった人物たちである。初期の映画製作は、カップ系映画人や北に渡った左派映画人が根幹となって行なわれた。1947年、共産党宣伝班内に映画班が設置された。またソ連と中国の協力によって朝鮮国立映画撮影所(現在の朝鮮芸術映画撮影所)が平壌に設立された。北朝鮮の最初の映画は記録映画であった。1949年に最初の劇映画『我が故郷』が姜弘植監督、兪源準と文藝峰主演で撮られた。1949年、映画製作は2ヶ年人民経済計画に組み込まれた。
朝鮮戦争期

1951年、国立映画撮影所は米軍の爆撃で全焼した。朝鮮の映画人たちは中国の東北電影に疎開し、1953年までそこで映画の製作を続行した。
復興期

休戦後、ソ連、中国、チェコスロバキア、東独などの援助を得て、撮影所が再建された。戦後の建設や復興を描いた劇映画が制作された。この時期に活躍した主な監督たちは、姜弘植、千尚仁、尹龍奎、呉秉超、朴学、田雲峰、崔益奎といった戦前からの映画人たちで、日本で映画を学んだ者も多い。また朝鮮戦争の直前や戦争中に韓国から渡ってきた映画人も少なくない。1959年には平壌演劇映画大学ができ、全国に映画館が建設され(現在では国内全土に4500もの劇場がある)、劇場のない農村では移動映写班が上映会を重ねた。
変革期

1967年、金日成の率いる満州パルチザン派に対抗していた甲山派が粛清された。この事件を契機として映画界の反党分子の清算が問題となった時、労働党宣伝扇動部の文化芸術指導課長となった金正日が映画界の改革に着手した。ソ連と西欧から現代的な映画製作設備を導入し、在日朝鮮総連の資金で撮影所の拡張を図り、優秀な人材をソ連に留学させ、文化芸術関係者の社会的処遇を大幅に高めた。金正日の指導によって『血の海』(1969)、『花を売る乙女』(1972)などの佳作が制作された。
改革期

1980年代、韓国申相玉監督と女優の崔銀姫が北朝鮮に拉致され、平壌に申フィルムを設立した。申フィルムは、日本香港など外国の映画人との合作を推進し、そして国際映画祭への出品などの積極的改革を進めた。作品の多くは、民衆に熱狂的に受け入れられた。
先軍期

金日成の死去後、金正日が政治権力を継承したが、北朝鮮の経済状況は悪化し、国際的にも孤立が進んだ。核査察問題などで西側諸国から経済封鎖などの制裁を受け、旧東側諸国の友好国の援助も激減し、深刻なエネルギー不足に陥った。さらには自然災害のため深刻な食糧不足が起こった。諸問題の打開策として「先軍政治」が始まると、それは映画にも反映された。それらは「社会主義現実主題」路線の映画と呼ばれる。

2000年代以降、イギリスやロシアなどからのドキュメンタリー映画の取材を積極的に受け入れるようになり、「奇蹟のイレブン [1966年W杯 北朝鮮VSイタリア戦の真実]」(2002英)、「ヒョンスンの放課後」(2004英)、「青い眼の平壌市民」(Crossing the line, 2006英)などの映画が製作されている。しかし、「太陽の下で -真実の北朝鮮-」(2015露)に見られるように、当局側によるやらせや取材への干渉が行われてもいた。

2006年に製作されたキム・ラエ監督の「ある女学生の日記」は翌年のカンヌ国際映画祭で北朝鮮映画として初めて上映されている。2012年にはイギリス・ベルギーとの合作によるロマンチックコメディー映画『金同志は空を飛ぶ(Comrade Kim Goes Flying)』が製作され、釜山国際映画祭でも特別上映がなされた。[1]

金正恩政権下では、新作映画の本数が2012年に5本、13年から15年まで各1本、16年に3本と大幅に減少しており、17年から19年にかけては1本も製作されない状態が続いている[2]

韓国国内では北朝鮮映画の上映は制限されていたが、2018年富川国際ファンタスティック映画祭で初めて「プルガサリ 伝説の大怪獣」(1985)・「金同志は空を飛ぶ」・「我が家の物語」(2016)などの9作品が公式上映された。[3]
主要監督
姜弘植

カン・ホンシク(1902.12.9-1971.10.9.) 平壌市中区万寿洞で商人の家庭に生まれる。1917年3月,高等普通学校2年の課程を終えると、歌手として活動.揺籃期の民族芸術映画にも俳優として参加。1920年代に日本に渡りモダンダンスの石井漠に弟子入り、日活から山本嘉一の弟子として石井輝男の芸名で俳優デビュウし、『正義の強者』、『鉄腕記者』、などの作品に出演。1925年,李慶孫とともに鶏林映画社を組織。カップの作家だった沈熏が台本を『暁の頃』(1927)に申一仙とともに主演。またこの映画の主題歌も歌い、コロンビアレコードで録音した。1930年代は歌手活動と舞台俳優を並行。1939年に全昌根とともに高麗映画社を組織。『洪吉童』(1932)、『荒蕪地』(1936)、『福地萬里』(1940)、『家なき天使』(1941)、『太陽の息子』(1943)などに出演。独立後の1947年2月、平壌に設立された国立映画撮影所(後の朝鮮芸術映画撮影所)の最初の演出家として参加し、初代副所長に就任した。全東民、閔貞植、千尚仁とともに記録映画『三十八度線』を撮る。独立後の朝鮮映画の第一作『我が故郷」(49)を監督する。他に『警戒所を守る人々』(1950)、『飛行機狩り』(1953)、『幸福の道』(1956)、『愛情』(1959)、『幸福な街』(1959)、『赤い信号弾』(1960)、『抗争の序曲』(1960)、『青年作業班長』(1962)などを監督。また俳優として『海が呼んでいる』(1956)で主役、また『終りなき戦闘』(1957)や『崔鶴信の一家』(1967)にも出演。耀徳強制収容所で死亡。息子のカン・ヒョソンは映画監督、カン・ヒョスンは音楽家、カン・ヒョジェは俳優。
千尚仁

チョン・サンイン(1923-1969) 日本の撮影所で吉村公三郎の助監督をしながら映画を学ぶ。日本名は千葉尚仁(ちばしょうじん)。独立後、日本人妻とともに北朝鮮へ帰国。記録映画の監督となり、『南北連席会談』(1948)、『勝利の九月』(1948)、『民主建国』(1949)、『全世界に告ぐ』などを演出。休戦後、劇映画の演出に転じ、『再び前線へ』(1952)を監督。国際映画賞を受賞。1952年よりモスクワに留学。主な監督作に『二度とあのようには生きられない』(1956)、『彼が行く道』(1958)、『未来を愛せよ』(1959)、『豆満江』(1959)、『友よ、我らとともに』(1960)、『赤い花』(1963)、『祝杯』(1963)、『人民教員』(1964)、『両班伝』(1964)、『私が探した道』(1967)がある。墓地は愛国烈士陵にある。
尹龍奎

ユン・リョンギュ(1912-?) 東京俳優学校出身。豊田四郎八木保太郎のもとでシナリオ修行をし、『大日向村』(41)などの助監督につく。日本名は春山潤(はるやまじゅん)。独立後の韓国で『心の故郷』(1949)を監督。朝鮮戦争時に人民軍とともに越北。『少年遊撃隊』(1951)、『郷土を守る人々」』(1952)などを監督した。時代劇の名手としても名高い。『パルチザンの乙女』(1954)、『新婚夫婦』(1955)、『漁郎川』(1957)、『愛国者』(1959)、『団結の歌(1)」』(1959)、『女性英雄鉱夫』(1960)、『ある医学者の道』(1973-77)、『春香伝』(1980)、『タルメとポンタリ』(1981)、『琴に秘めた想い』(1986)。
呉炳草

オ・ビョンチョ(1924.8.30.-1993.3.13.) 咸鏡北道茂山郡ソンチョン洞の貧農に生まれる。幼くして両親と死別。1943年より茂山鉱山で働く。祖国光復組織「白衣社」の一員として活動。独立後の1947年4月、ソ連に留学。司法学校を2年で中退。モスクワ演劇大学で学ぶ。1953年7月27日、帰国。国立劇場で演出家となる。演劇『崔鶴信の一家』や『白頭山』での演技により芸術界で頭角を現す。1956年に映画撮影所に転勤し、映画『別れては暮らせない』(1957)を演出。『旋盤工』(1963)で一躍大成功をおさめる。『道はひとつだ』(1958)、『誠実な人々』(1959)、『彼の願い』(1959)、『黄昏』(1961)、『これは伝説ではない』(1962)、『解放された私の希望』(1964)、『彼らはこのように闘った』(1964)、『成長の途上にて(後編)』(1965)、『温井嶺』(1965)、『崔鶴信の一家』(1966)、『銀波山の一家』(1968)、『社会主義祖国を訪れた英洙と英玉』(1969)、『敵陣の中のツツジ』(1970)、『妻の職場』(1970)、『我ら宣伝員』(1970)、『ある看護婦の物語』(1971)、『楽しきわが職場』(1975)、『輝く世代』(1979)、『初めて行く道』(1980)、『ある党員の物語』(1981)、『妙香山の出会い』(1982)、『試練を乗り越えて』(1983)、『生命水』(1985)、『偉大な懐』(1986)。


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