北朝鮮による日本人拉致事件(きたちょうせんによるにほんじんらちじけん)とは、北朝鮮工作員などによって多くの日本人が、日本国内やヨーロッパから北朝鮮に拉致された事件である。 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(通称、「救う会」)では、それぞれの拉致事件を次のように分類している[1]。 (1) 工作員日本人化教育の教官とその配偶者にさせるために拉致されたケース
概要
拉致事件の分類
加藤久美子(1970年)
横田めぐみ(1977年)
田中実
田口八重子(1978年)
地村保志・浜本富貴恵(1978年)
蓮池薫・奥土祐木子(1978年)
市川修一・増元るみ子(1978年)
(2) 拉致した日本人を工作員として使おうとしたケース
福留貴美子(1976年)
石岡亨(1980年)
松木薫(1980年)
有本恵子(1983年)
(3) 実行犯工作員が当人になりすますために拉致する、いわゆる「背乗り拉致」
宇出津事件の久米裕(1977年)
辛光洙事件の原敕晁(1980年)
西新井事件の小住健蔵(1980年頃)
(4) 北朝鮮の工作活動に遭遇したため連れ去られた「遭遇拉致」
寺越昭二・寺越外雄・寺越武志(1963年)
(5) 以上にあてはまらない、もしくは拉致目的が不明なケース 2002年(平成14年)9月、内閣総理大臣の小泉純一郎が北朝鮮を訪問したことで実現した日朝首脳会談において、北朝鮮の最高指導者である金正日は、1970年代から1980年代にかけての拉致事件の背景として、 の2点を挙げた[2]。 元北朝鮮工作員で脱北した安明進は、日本人拉致の原点は北朝鮮の掲げる最高目標「朝鮮半島の赤化統一」にあり、「最高目標のためには手段を選ばず実行」する方針にもとづき、工作員を南の分断国家である韓国へ送り込んで、韓国各界に協力者をつくり、増殖させながら革命に向けた工作活動を展開することにあると指摘している[2]。 平壌留学の経験もある関西大学の李英和は、1950年代から1960年代にかけては、日本から在日韓国・朝鮮人が拉致されたケースが少なくなかったと述べ、具体例として、平壌留学中に出会ったある在日男性から次のような告白を聞いたことを証言している[2]。 中学生のとき、アメリカの遊園地に行こうと誘われて日本を出たが、着いたのは北朝鮮。そのまま日本発行の再入国許可証と外国人登録証を取り上げられ「代わりの人間が日本へ渡ったから、もうお前は戻れない」と宣告された[2]。 李英和は、在日が忽然と姿を消しても日本人ほどの騒動にはならないという計算も働いていただろうと分析している[2]。なお、李英和は帰国直前の1992年11月に朝鮮社会科学院の教官から、詳細な「拉致講義」を受けている[3]。 しかし、1974年の在日韓国人による韓国大統領暗殺未遂事件、すなわち文世光事件で状況は一変する[2]。 金正日は、小泉に対し、以下のように特殊機関の一部が日本人拉致した事実を認め、謝罪した[4]。
古川了子(1973年)
松本京子(1977年)
曽我ミヨシ・曽我ひとみ(1978年)
拉致事件の背景
被害者の身分を利用した韓国への不正入国(日本旅券の取得)
特殊機関での工作員への日本語指導(日本人化教育)
金正日による謝罪と釈明