北方謙三
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北方 謙三
(きたかた けんぞう)
誕生 (1947-10-26)
1947年10月26日(76歳)
佐賀県唐津市
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
教育学士法学
最終学歴中央大学法学部卒業
活動期間1970年 -
ジャンルハードボイルド歴史小説
代表作

弔鐘はるかなり』(1981年)

』(1983年)

友よ、静かに瞑れ』(1983年)

『破軍の星』(1990年)

三国志』(1996年 - 1998年)

水滸伝』(1999年 - 2005年)

楊令伝』(2006年 - 2010年)

主な受賞歴

日本冒険小説協会大賞(1983年)

吉川英治文学新人賞(1983年)

角川小説賞(1984年)

日本推理作家協会賞(1985年)

柴田錬三郎賞(1991年)

吉川英治文学賞(2004年)

司馬遼太郎賞(2005年)

舟橋聖一文学賞(2007年)

日本ミステリー文学大賞(2009年)

毎日出版文化賞(2011年)

紫綬褒章(2013年)

菊池寛賞(2016年)

歴史時代作家クラブ賞(2017年)

旭日小綬章(2020年)

毎日芸術賞(2024年)

デビュー作『明るい街へ』(1970年)
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北方 謙三(きたかた けんぞう、1947年10月26日[1] - )は、日本小説家
略歴

佐賀県唐津市生まれ[1]。幼少時代を佐賀県で過ごす。実家は曾祖父の代から、唐津市で菓子屋を経営していた。父親は外国航路の船長だったため、会えるのは船が帰港する時だけで、その都度、神奈川県横浜市に会いに出かけていた[1]。父親は、まだ幼く字が読めない謙三を児童書売り場に連れて行くことが多く、挿絵を見て話を想像していたことが、後に物語を生む原体験となった。父親は作家という職業に否定的な発言をしていたが、後述するデビュー後の低迷時代の謙三に「10年間、同じ場所でじっと我慢していられたら、何かが出てくるもんだ」と励まし、また再デビュー後の作品を密かに買い揃えていた[2]。小学校5年の時に、同県川崎市に転居。芝中学校・高等学校卒業[3]。同校で中村博保の指導を受ける[4]。しかし、高校3年生の時に肺結核が見つかり、「修学不可」と宣告された。柔道部にいて健康に自信があっただけに、大きな衝撃を受けた。半年治療したが快復せず、健康診断書を「異常なし」に書き換えて[1]中央大学法学部に入学。

当時は、学生運動華やかなりし時代であり、北方自身も肺結核による精神的な重荷から喧嘩や全共闘運動に参加した。一方で小説を書くことに興味を抱き、また吉行淳之介のように結核持ちが多かった小説家としてなら、やっていけると考えるようになった[2]

中大在学中の1970年、純文学作品『明るい街へ』を同人誌に発表。同作が雑誌『新潮』編集者の目に留まり、学生運動でバリケード封鎖中に来訪を受けて転載の了承を依頼された。1970年3月号に掲載され、学生作家としてデビューを果たす。1973年に中央大学法学部法律学科を卒業[1]。PR誌の企画スタッフや肉体労働をしながら小説執筆を続ける。デビュー時は「大江健三郎以来の学生作家」「天才」と『新潮』編集長に称賛されたが、その後の10年間は100本書いて雑誌掲載は3本のみで、持ち込み仲間の中上健次立松和平より掲載率は低かった[2]

そうした数少ない採用作をまとめてはどうかという相談を持ち掛けた集英社の若手編集者と話すうち、「暗い話を書いている場合じゃない」と路線転換を進められた。そうして1981年に単行本デビューにいたったのが『弔鐘はるかなり』[2](『第二誕生日』改題)である。実質的な新人としては異例の“書き下ろし長編”による処女出版であり、二度目のデビューである。初版は8千部。翌1982年には、『逃がれの街』(『ふたりだけの冬』改題)も出版。その後『眠りなき夜』『さらば、荒野』『檻』とヒット作を次々と生み出し、“ハードボイルド小説の旗手”として一躍人気作家となり、「月刊北方」の異名を取るにいたる。[2]

1983年には『逃れの街』が、主演水谷豊、監督工藤栄一で映画化。以降『友よ、静かに瞑れ』(1985年)、『黒いドレスの女』(1987年)などが次々と映画化され、作家としての地位を築き上げる。同年、日本冒険作家クラブの創設の発起人の一人となる。

1989年、初の歴史小説として南北朝時代を舞台とした『武王の門』を発表[1]。続く南北朝ものである『破軍の星』では、第4回柴田錬三郎賞を受賞。

1996年、全13巻6500枚書き下ろしという大長編、北方版『三国志』の刊行が開始され、以降の歴史小説は、中国史へとその裾野を拡大。1999年には『水滸伝』が『小説すばる』で連載開始。前作を超える全19巻9500枚の超大作は、北上次郎によって「日本の大衆小説の最高峰」と評された。同作は2006年、第9回司馬遼太郎賞を受賞。「新しい歴史教科書をつくる会」賛同者に名を連ねる。

2000年から2023年まで、直木三十五賞の選考委員を務める。他に吉川英治文学賞江戸川乱歩賞小説すばる新人賞の選考委員。
人物

「ハードボイルドの新星」
[5]であったデビュー当時は、かつての日活映画のような雰囲気のアクション小説を書いているつもりであり、ハードボイルドの大御所レイモンド・チャンドラーも眼中に置かなかったと言う。むしろ白井喬二大仏次郎中里介山など明治大正時代の大衆小説を復活させる気持ちで書いていた[6]。そのため、作家になってからしばらく、他の作家のハードボイルド小説に関する談話には入っていけなかったという。全くハードボイルドに馴染みがなかったというわけではなく、ダシール・ハメットの作品を一冊読んだことがあると明かしている[7]


立松和平とは習作時代の仲間同士。立松によれば、自分の作品は時々採用されたが、北方のはまったく採用されなかったと言っている(「略歴」の項を参照)。大学では磯田光一に学んだことがあり、『逃がれの街』を刊行した頃、たまたま磯田に会い、「あれを発展させると新しい青春小説になる」と言われ、純文学の評論家の磯田がハードボイルドを読んでくれたことに驚いたという。


ほぼ同時期にデビューした作家には、冒険小説・ハードボイルド小説作家である大沢在昌(1979年にデビュー)、船戸与一(同1979年)、佐々木譲(同1979年)、逢坂剛(同1980年)、志水辰夫(同1981年)らがおり、親交も厚い。


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