この項目では、葛飾北斎の画集について説明しています。
矢代静一の戯曲については「北齋漫畫 (戯曲)」をご覧ください。
新藤兼人監督による戯曲の映画化作品については「北斎漫画 (映画)」をご覧ください。
『北斎漫画』
作者葛飾北斎
製作年1814年 (1814) - 1878年 (1878)
種類版本[1]、全十五編
寸法22.8 cm × 15.9 cm (9.0 in × 6.3 in)[1]
『北斎漫画』(ほくさいまんが、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:北齋漫畫)は江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎による画集である[2]。文化11年(1814年)から北斎没後の明治11年(1878年)まで、全十五編[注釈 1]が断続的に刊行された[2]。人物、動植物、風俗、職業、市井の人々、建築物、生活用具、名所、名勝、天候、故事、説話、歴史上の人物、妖怪、幽霊など4,000点[注釈 2]を超える様々な主題の図版が絵手本の用途で収録され、総頁数は970を数える[5]。『冨嶽三十六景』とともに北斎の代表作のひとつに挙げられ[6]、欧州を中心とした日本国外でも『ホクサイ・スケッチ』の名で親しまれており、多くの芸術家に影響を与えた[7]。 『北斎漫画』は文化11年(1814年)に当初1冊完結の絵手本として刊行されたが、その後版元を変えて全十編の構想で追加刊行された[8]。その後も人気は衰えず断続的に追加され、北斎没後29年目の明治11年(1878年)の十五編を以て完結となった[5]。各編の最初には序文として石川雅望や大田南畝らが讃を寄せている。名古屋の版元では江戸のように厳密に奥付を付ける文化が根付いていなかったことなどもあって一部奥付が無く、刊行年が不明な編も存在している[9]。なお、下表に示す丁数は序文も含んだものとなる。 値段については庶民的な蕎麦が1杯16文程度だった時代において、大判錦絵が約20文前後であり、『北斎漫画』のような半紙本はそれよりもやや高額であったとみられている[10]。踊りの描写。『北斎漫画』三編 編初摺り刊行年丁数[注釈 3]序文奥付主となる版元出典
構成
初編文化11年(1814年)27半洲散人
二編文化12年(1815年)30六樹園主人有り角丸屋[13]
三編文化12年(1815年)29蜀山人有り角丸屋[14]
四編文化13年(1816年)29?山漁翁
初編から三編までは北斎の手控帳や絵日記などからの抜粋と見られ、人物や山川草木魚虫などさまざまな形態描写が中心となっている[4]。なお、二編から十編については、刊行に際して次のような広告が打ち出されていたことが明らかとなっており、四編以降はある程度のテーマをもたせた内容としてシリーズを構成していたことが分かっている[27]。
編広告文
二編・三編興に乗じ心にまかせてさまざまの図を写す篇を続て全部に充こと速也
四編草筆を加へ席上の臨本にしからしむることを要とす
五編花表堂塔迦檻月卿雲客舘斉房舎を委くうつしてなをつきざるハ編々にもらすことなし
六編剣法鎗法弓馬炮術等稽古のかたちをうつしてつまびらか也尤武徳の尊きを表せる一書と云べし
七編国々名勝の地風雨霜雪のけいしよくをうつす
八編前編に洩たるを補ひ且錦繍養蚕の業をゑがく
九編和漢の武者および貞婦烈女のたぐひを戴す
十編神仏並に貴僧高僧幻術外風流の人物等をしるす
四編は歴史上の人物や花鳥風景が中心となっているが、中でも潜水夫など水の中に入って活動する人々を模写した浮腹巻図はエドガー・ドガが構図を参考としたと見られる作品が残されていることで知られている[4]。五編は鳥居や鐘楼、屋根といった建造物を中心に仏具や人物などの絵図が収められている[4]。六編は弓、馬、槍、砲などの武具や柔術、空手などの武術を中心として構成されている[4]。七編では諸国の名所や風景などが一枚絵で描かれている[4]。八編では人相や身体の諸態の絵図の他、養蚕機器や建築機器などの機材、奇岩風景画などが描かれている[28]。九編は和漢の人物、情婦などの美人を中心に構成されている[28]。十編は怪談、亡霊、仙人などの非実在物を中心として構成されている[29]。十一編から十五編には自然の風景画や庶民の生活を切り取った風景画などを中心として様々な絵図が盛り込まれている[30]。
成立史
背景『伝神開手 北斎漫画 全』と記された『北斎漫画』初編の初版本。
それまで使用していた宗理の号を門人に譲り渡して葛飾北斎を名乗った北斎は、40代後半に入ってますます円熟味を増していき、江戸の流行に合わせて文化初年ごろより読本挿絵制作に傾注し、曲亭馬琴らとともに数多くの作品を刊行していた[31]。こうした仕事がひと段落した文化9年(1812年)ごろ、北斎は関西方面へと旅に出たとされている[32]。旅行の帰路で名古屋の門人[注釈 5]牧墨僊宅[注釈 6]に逗留し、その間に三百余図の版下絵を描き上げた[32]。