この項目では、日本第二の高峰である北岳について説明しています。中国の三山五岳のひとつである北岳については「恒山」をご覧ください。
北岳
南南西にある中白根山から望む北岳。
北岳(きただけ)は、山梨県南アルプス市にある標高3193 m[1]の山。赤石山脈(南アルプス)北部に位置し、富士山に次ぐ日本第2位の高峰である[1]。 富士山に次ぐ日本第二の高峰であり、火山でない山としては日本で最も高い。日本百名山[3]、新・花の百名山[4]及び山梨百名山[5]に選定されており、同じく日本百名山の一峰の間ノ岳、日本二百名山の農鳥岳とともに白峰三山を構成し[6]、「南アルプスの盟主」とも呼ばれる[7]名峰であり、登山者からも飛騨山脈(北アルプス)の槍ヶ岳、穂高岳、剱岳などに並んで人気を誇る。当山から中白根山を経て間ノ岳への約4 kmの稜線は「天上の散歩道」と呼ばれる。野呂川 (早川の支流) の源流の山であり、山体は他の県と接しておらず山梨県内に含まれる。全山古生層の堆積岩から成る[8]。山体の東側斜面は北岳バットレスと呼ばれる岩壁があり、登攀対象ともなっている。 古くから、北岳、間ノ岳、農鳥岳一帯の山体は、「白い雪をかむった山」という意味で白根山または白峰山と呼ばれた。平安時代前期の和歌集『古今和歌集』では「君すまば甲斐の白嶺のおくなりと雪ふみわけてゆかざらめやは」と詠われ、平安期の『後拾遺和歌集』では、「いづかたと甲斐の白ねは知らねども、雪降るごとに思ひこそすれ」と詠まれた。鎌倉時代に成立した軍記文学
概要
人間史毛無山より白峰三山を望む
左から農鳥岳、間ノ岳、北岳
江戸時代後期に成立した甲斐国地誌『甲斐国志』では、「南北に連なりて三峯あり、其北の方最も高き者を指して今専ら白峯と称す」と記された。南北に連なる白峰山の、一番北にあることから北岳と呼ばれるようになった[8][10]。現在では三つの峰それぞれを1つの山として取り扱っているが、これらの山々を合わせて白峰三山(しらねさんざん)と呼ぶこともある[6]。
また、江戸時代に制作された甲斐国絵図類においても白根岳は富士山や八ヶ岳とともに冠雪や雲上表現、登山道の省略など神格表現で描写されており、甲府盆地を抱く特殊な霊山として認識されていたと考えられている[11]。
1964年(昭和39年)6月1日には、赤石山脈の多くの山域が南アルプス国立公園に指定され、山の上部はその特別保護地区、山腹は特別地域となっている[12]。1980年(昭和55年)には北沢峠を越える南アルプススーパー林道が開通[13]し、その後長野県と山梨県の両方向から、登山及び観光用のバスが運行されるようになった。
2004年(平成16年)10月15日には国土地理院が最高点の標高を3193 mに改定[14]。それ以前標高3192 mと公表されていたが、山頂の三等三角点 (3192.18 m)[15]より南の岩盤の方が約80 cm高いことが確認されたためである[14]。
登山史・登攀史が、広河原から白根御池を経由して登頂し、里宮・中宮・奥宮を造り開山したとされる[2][16]。これ以後、北岳登頂が多くの登山家によってなされてゆく。
1902年(明治35年)8月23日には、イギリス人宣教師のウォルター・ウェストンが登頂し、1904年(明治37年)に日本を再訪問した際に再登頂した。この時、間ノ岳と仙丈ヶ岳にも登頂した[17]。1905年(明治38年)には伊達九郎らが、白根御池から稜線ルートにて登頂[18]。日本山岳会初代会長である小島烏水は1908年(明治41年)7月に登頂し、山頂に寛政7年(1795年)の年号が彫られた石祠を確認した[2]。積雪期に初登頂が成されたのは1925年(大正14年)3月22日のことである[9]。 当時京都三高山岳部であった西堀栄三郎・桑原武夫ら4人が成し遂げた[9]。
北岳バットレス登攀の動きも積雪期初登頂から少しして見られるようになる。初登攀は1927年(昭和2年)の7月18日[19]。京都大学の高橋健治ら4人が第5尾根より無雪期に初めて登攀した[19]。初登攀から7年後の1934年(昭和9年)12月27日には、立教大学の浜野正男、榎本忠亮が東北尾根より積雪期の初登攀をした[19]。7つの岩稜の中で最後まで残されたのが積雪期中央稜である。この登攀が行われたのは戦後になってからで、1958年(昭和33年)に奥山章、芳野満彦らが積雪期初登攀を成した[19]。中央稜の初登攀は松濤明によって1942年7月30日に成された[19]。松濤はこの時20歳、飛騨山脈南部の槍ヶ岳北鎌尾根にて死亡する7年前だった。