北尾次郎
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北尾 次郎

生誕 (1853-08-08) 1853年8月8日
出雲国松江藩
死没 (1907-09-07) 1907年9月7日(54歳没)
脳脊髄神経麻痺
国籍 日本
研究分野気象学・物理学
研究機関東京大学帝国大学農科大学
出身校ベルリン大学ゲッティンゲン大学
指導教員ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ
主な業績「大気運動と颶風に関する理論」の発表
プロジェクト:人物伝
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黒田清輝による肖像画(1907年、島根県立美術館蔵)

北尾 次郎(きたお じろう、嘉永6年7月4日[1][2][注 1]1853年8月8日[4] - 明治40年〔1907年9月7日[1][2]は、日本の気象学者物理学者理学博士)。
経歴

出雲国松江藩藩医村松寛裕[3][5][6][注 2]の次男[3][5][注 3]として出生。幼名は録次郎[5][6]

幼少の頃から『四書五経』の素読に励み、12歳で『文選』『史記』『通鑑』等を通読する俊才だった[3]1869年、同藩の蘭方医北尾漸一郎の養嗣子となった[3][6][7]。同年開成学校に入学してフランス語を学び、同校が大学南校に改称されると、英語と究理学(物理学)を学んだ[3]

1870年、16歳で明治新政府派遣のドイツ留学生に選ばれたが、これは同政府が医学修行のため抜擢した14名のうちの最年少であった[3]。ドイツ到着後2年間はギムナジウムで主にドイツ語を学び、1873年ベルリン大学に入学し、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツグスタフ・キルヒホフエルンスト・クンマーらの下で物理学と数学を学んだ[3]。同年、政府官費給与制度が廃止となり、以降は養父からの学費や家庭教師などの収入で勉学を続けた[3]。後にゲッティンゲン大学で学位を得た[2][6]。ベルリン大学では、ヘルムホルツの指導下で色彩感覚を物理学的に扱って光に対する視力を測定するロイコスコープを発明したが、発明の優先権の扱いでヘルムホルツと軋轢を生じた。1878年にゲッティンゲン大学に北尾の学位論文として提出して、理学博士号に相当する学位を受けたが、後にベルリン大学へ戻ってヘルムホルツの下で研究を続けた[3]

1883年末に帰国。翌1884年2月より文部省御用掛となり、東京大学理学部勤務を被命、同年に留学中婚約したベルリン生まれ[7]のドイツ人ルイゼ(日本戸籍名は留枝子)と結婚した[3][注 4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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