北尾光司
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}画像提供依頼:顔写真の画像提供をお願いします。(2021年5月)

北尾 光司(きたお こうじ、1963年昭和38年〉8月12日 - 2019年平成31年〉2月10日[1])は元大相撲力士で第60代横綱立浪部屋所属。引退後は総合格闘家、スポーツ冒険家、武道家、プロレスラー[2]等、多くの肩書を名乗った。三重県津市出身。

横綱時代の四股名は双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)。横綱まで昇進しながら幕内優勝を一度も経験していない力士であった。
大相撲時代

双羽黒 光司


基礎情報
四股名双羽黒 光司
本名北尾 光司
生年月日 (1963-08-12) 1963年8月12日
没年月日 (2019-02-10) 2019年2月10日(55歳没)
出身三重県津市
身長199cm
体重151kg
BMI38.13
所属部屋立浪部屋
得意技右四つ、寄り、掬い投げ
成績
現在の番付引退
最高位第60代横綱
生涯戦歴348勝184敗24休(54場所)
幕内戦歴197勝87敗16休(21場所)
優勝十両優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞5回
技能賞2回
データ
初土俵1979年3月場所[2]
入幕1984年9月場所[2]
引退1988年1月場所(番付掲載のみ、前年12月に廃業)[2]
引退後スポーツ冒険家
プロレスラー・格闘家
ナイフ評論家
立浪部屋アドバイザー
趣味パソコン、模型作り、ナイフ収集[3]
備考
金星3個(北の湖千代の富士隆の里
2020年5月29日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

角界入り

幼少期に父親の影響で柔道を始めたが、津市立敬和小学校に土俵が完成してからは毎日のように相撲を取って相撲が徐々に好きになり、地元の商店街で出場を勧められた相撲大会で優勝してからはさらに好きになった[注 1][4]。次第に対戦相手に困るようになると、立浪部屋後援会会員の中にアマチュア相撲三段の腕を持ち、「津相撲クラブ」の責任者を務める人物から指導を受け、津市立東橋内中学校へ入学して以降は立合いの当たりで対戦相手を土俵下まで吹っ飛ばすほどの実力を付けた。指導者の協力で、毎年の夏休みには立浪部屋へ泊まり込みで稽古し、6時に起きて周辺を5km走るのも絶対に欠かさなかった[4]。中学入学後は同じ中学生に十分な相手がいなかったために三重高等学校出稽古に出かけたが、高校生を相手に全く負けず、3年生の夏休みに相撲教習所で行われた日本相撲協会指導普及部の進級試験兼各支部対抗試合でも優勝した。中学校には相撲部や土俵が無かったためにアマチュア相撲界では無名だった北尾が、これにより角界でたちまち評判になった[4]。両親はそのまま三重高等学校への進学を願ったが入門の意思は変わらず、「5年で関取になれなかったら帰る」との条件付きで、中学卒業と同時に立浪部屋に入門した[4]

1979年3月場所に初土俵を踏む。この場所、中卒で初土俵を踏んだ昭和38年生まれ力士たちは「花のサンパチ組」と呼ばれ、北尾もその一人として数えられた。初土俵を踏んだ時点で195cmの長身[5][3]と当初から鳴り物入りで角界入りした北尾は、恵まれた体格と素質は誰もが認めるほどだった。また、相撲教習所では自他ともに認める「バスケットボール選手みたいな体」で注目を集め、中でも同期の保志(のちの横綱・北勝海)は特に驚いていたという[4]が、北尾は「小柄な保志は保志で、すごく目立っていました」と後年述懐している[4]幕下時代には後援者と食事をした時に、自身の大好物であるステーキを3000g食べたかと思うと、直後に中華丼・天津丼・オムライス・炒飯・チャーシュー麺・冷やし中華・カツ丼を次々に注文しては殆ど完食するほどだった。
度重なるトラブル

しかし、父親が建設会社の取締役で北尾はその一人息子として甘やかされて育てられたためか、少しでも厳しい稽古をさせると「痛い、痛い」と音を上げる癖があった[5]。さらに口癖のように「故郷へ帰らせてもらいます」と発言し、6代立浪も北尾に対してではなく稽古を付けた兄弟子を注意する始末だった[注 2][5]黒姫山はこれに関して「幕下までは技術面に関しては手取り足取り教えますけど、関取になってからは口を出すこともない。ましてや私生活の面は、稽古が終われば僕たち親方衆は自宅へ帰ってしまいますから分かりませんからね。そのうち気が付けば、師匠が北尾に対して、腫れ物に触るかのような接し方をするようになっていて、僕らからも何も言えなくなってしまった」と後年語っている[6][5]。そして、椎間板ヘルニアで途中休場して入院した時は、6代立浪への不信感を抱いて本当に故郷へ帰ってしまった。これに怒った父親が北尾を追い返すと、6代立浪は罰として一年間の便所掃除を命じた。さらに鞭打ち症で途中休場して伊豆へ温泉治療に行った際には、伊豆で廃業を決意して友人の家に行ったが立浪にすぐ発見され、懇々と諭されて連れ戻された。酷い時は稽古をサボって喫茶店に行くこともあったが、6代立浪が注意しないために誰もが見て見ぬふりをしていた。だが、高砂部屋への出稽古通い[注 3]や隠れ稽古に関しては絶対に欠かさなかったという[7]。また、相撲記者の荒井太郎の記事によると、若い頃は入院中に落ちた筋力を取り戻すために、退院後はたっぷりと四股を踏み、一日500回が日課のスクワットもこなしながら下半身強化に努めた他、持病の腰痛を克服するために、幕下時代には独学で太極拳をマスターするなどしたという[8]
出世街道

部屋を抜け出す騒動を度々起こしても持ち前の素質や出稽古などは欠かさなかった成果か、同期の保志には先を越されたものの、北尾は1984年1月場所で新十両、同年9月場所で新入幕を果たした。北尾の十両昇進によって1982年11月場所から続いていた立浪部屋の関取不在は解消された[3]。前頭三枚目に昇進した翌11月場所には、初日に大関北天佑を破る番狂わせを起こすと、3日目には憧れの横綱・北の湖と最初で最後の取組を演じ、これに勝利した。「対戦できたこと自体がもう嬉しくて…自分が目標としてきた力士と対戦できる喜び。とにかく負けてもいい」と後年に語っていた中での初金星であった[4]。この場所はその取組が評価されて初の三賞となる殊勲賞を獲得、1985年1月場所は新小結に昇進し、2場所連続で10勝、同年5月場所は新関脇となったが、中日の保志戦で左足を怪我したため途中休場(その後13日目から再出場)で6勝(6敗3休)に終わり、平幕に陥落した。しかし、翌7月場所は東前頭筆頭の地位で、千代の富士隆の里の両横綱を共に下して2個の金星を獲得した他、対戦した全横綱・大関を相次いで破る活躍で12勝を挙げ、優勝次点で殊勲・技能の三賞も獲得した[3]。中でも、この場所5日目の千代の富士戦は、立ち合い諸手突きで千代の富士得意の左前ミツを許さず、そのまま一気に押し出した[9]。同年9月場所関脇に復帰して11勝、次の11月場所も関脇で12勝の優勝次点と、幕内上位及び三役の地位で3場所連続二桁勝利を達成、この3場所合計でも35勝の好成績を挙げた事を高く評価され[注 4]1986年1月場所で新大関となった[3]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:226 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef