北口本宮冨士浅間神社
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北口本宮冨士浅間神社


大鳥居(2019年8月26日撮影)
所在地山梨県富士吉田市上吉田5558
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度28分14.8秒 東経138度47分32.6秒 / 北緯35.470778度 東経138.792389度 / 35.470778; 138.792389 (北口本宮冨士浅間神社)座標: 北緯35度28分14.8秒 東経138度47分32.6秒 / 北緯35.470778度 東経138.792389度 / 35.470778; 138.792389 (北口本宮冨士浅間神社)
主祭神木花開耶姫命
天孫彦火瓊瓊杵命
大山祇神
社格等旧県社
別表神社
創建(伝)景行天皇40年
日本武尊東征時)
例祭初申祭 5月5日
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}北口本宮冨士浅間神社
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北口本宮冨士浅間神社(きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ)は、山梨県富士吉田市上吉田にある神社旧社格県社で、現在は神社本庁別表神社富士登山吉田口登山道の起点にあたり、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産のひとつである「富士山域」の一部として世界文化遺産に登録されている。
祭神

木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

天孫彦火瓊瓊杵命(てんそんひこほのににぎのみこと) - 夫神

大山祇神(おおやまづみのかみ) - 父神

大祭

新年祭 -
2月17日

初申祭(例祭) - 5月5日

鎮火祭(吉田の火祭り) - 8月26日27日

新嘗祭 - 11月23日

由緒

景行天皇40年に、日本武尊が東方遠征の折、箱根足柄より甲斐国酒折宮に向かう途次、当地を通過、「富士の神山は北方より登拝せよと」、祠を建てて祀ったのが始まりとされている。

延暦7年(788年)に甲斐守である紀豊庭により現在地に神殿を建て、浅間の大神を祀り、大塚丘には日本武尊の神霊を祀った。以後、逐次造営、改築され、現在の本殿は元和元年(1615年)、谷村城主の鳥居土佐守成次の寄進により建立された。その後、貞享5年(1688年)に社殿が造修された。

享保18年(1733年)、江戸の富士講村上派を率いる村上光清が私財を投じて出資し、幣殿、拝殿、神楽殿、手水舎、隋神門を造営させた。

これは、郡内大工仲間による最大規模の造営となり、中でも拝殿は最大の建築物である。

拝殿の前の両脇には樹齢千年の「富士太郎杉」「富士夫婦檜」の名を持つ大きな御神木がある。中世には同社が所在する郡内地方の領主である小山田氏からの庇護を受けた。北口本宮富士浅間神社本殿 一間社入母屋造り軒唐破風付き

富士登山道の吉田口の起点にあたり、江戸時代中期以降には富士講が流行し、上吉田ではこれを早くから受け入れたことから登山道の中心地となった。周辺には御師宿坊が百件近く立ち並んだこともある。昭和初期には神社北の裏手から登山バス浅間神社 - 馬返線が運行していた。

江戸時代中期以降「諏訪大明神」よりも「浅間大菩薩」「富士浅間明神」の名のほうが大きくなり、明治時代には「冨士山北口本宮冨士嶽神社」と改称。その後「浅間神社」とも名乗るようになり、1946年昭和21年)に現在の「北口本宮冨士浅間神社」と改称した。

のちに扶桑教を起こす宍野半は当社の社司と富士山本宮浅間大社宮司を兼務していた。そのため隣接地には扶桑教元祠があり、現在も扶桑教ではここから吉田口登山道を登って頂上に至り、富士宮口登山道を下って浅間大社まで参拝している。
諏訪明神と浅間明神
北口本宮冨士浅間神社 摂社 「諏訪神社」
祭神

建御名方神(たけみなかたのかみ)

八坂刀売神(やさかとめのかみ)

例祭

鎮火祭 - 8月26日、27日

由緒

諏訪神社は元々は当地域の氏神であったが明治維新の際に北口本宮の摂社となった。勧請年代は不詳であるが、下記のことから、当社は、当初は諏訪神社であったと考えられている。

甲斐国志』巻之七十一神社部第十七上「諏方明神」の記述からも古社であることが窺える。古来より社中に「諏訪の森」が位置し、諏訪神社の鎮座地に浅間神社を勧請したと伝わる。往古ヨリ此社中ヲ諏方ノ森ト称スルハ、浅間明神勧請セザル以前ヨリ諏方明神鎮座アル故ナリト云、古文書二諏方ノ森浅間明神トアル是ナリ

天文17年(1548年)5月26日、小山田信有[要曖昧さ回避]は吉田の諏訪禰宜に富士山神事の際に新宮を建てる場合は披露するように命じている。


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