北勝海信芳
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北勝海 信芳

住吉大社での横綱土俵入りにて
(2017年3月4日)
基礎情報
四股名保志 信芳 → 富士若 信芳 → 保志 信芳 → 保志 延芳 → 北勝海 信芳
本名保志 信芳
生年月日 (1963-06-22) 1963年6月22日(60歳)
出身 日本北海道広尾郡広尾町
身長181cm
体重150kg
BMI45.79
所属部屋九重部屋
得意技押し、左四つ、寄り
成績
現在の番付引退
最高位第61代横綱
生涯戦歴591勝286敗109休(80場所)
幕内戦歴465勝206敗109休(53場所)
優勝

幕内最高優勝8回

十両優勝1回

幕下優勝1回

序二段優勝1回



殊勲賞3回

敢闘賞3回

技能賞5回

データ
初土俵1979年3月場所
入幕1983年9月場所
引退1992年3月場所(番付上では1992年5月場所)
引退後8代八角部屋 師匠
他の活動

第13代日本相撲協会理事長(2015年12月 - )

日本相撲協会理事(7期、2012年2月 - )

日本相撲協会監事(2期、2000年2月 - 2004年1月)

備考
金星1個(北の湖1個)
2024年3月25日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

北勝海 信芳(ほくとうみ のぶよし、1963年6月22日 - )は、北海道広尾郡広尾町出身で九重部屋に所属した元大相撲力士。第61代横綱。本名は保志 信芳(ほし のぶよし)。現役時代の体格は身長181センチメートル、体重150キログラム。得意技は押し、左四つ、寄り。愛称は海外公演で付けられた「ブルドッグ」。「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)の一人。血液型はA型。

現在は、年寄八角 信芳(はっかく のぶよし)として八角部屋高砂一門)の師匠。第13代日本相撲協会理事長[1]
現役時代
入門前

小学生時代に、既に北の富士から九重部屋への勧誘を受けていた。

1977年におじの勤務先の社長が13代井筒(第52代横綱・北の富士)と知り合いだったことが縁で勧誘されるが、13代井筒は以前勧誘したことがあるのを覚えていなかった。ちょうど保志は柔道で名を上げて他の相撲部屋にも勧誘されていたが、母親が電話で13代井筒に「最初に来てくれたあの部屋に行きたい」という保志の意向を伝えた[2]。翌年(1978年)に東京に転校して以来、12代九重(井筒から名跡変更)のもとで稽古を積んでいる。
大相撲入門?大関時代

中学卒業の1979年(昭和54年)3月場所に初土俵。後に北勝海と同じく「花のサンパチ組」が次々幕内上位で活躍する事となる。尚同期生には横綱・双羽黒がいる他、のちにプロレスラーとなった安田忠夫(孝乃富士)も同部屋で同期であった。さらに昭和の大横綱と言われる九重部屋の兄弟子・千代の富士との激しい稽古を重ねて強くなり、順調に出世していった。柔道経験者ながらも前に出る取り口に徹していた[3]

1983年(昭和58年)3月場所、19歳で新十両。北勝海と同じ北海道・十勝地方河西郡芽室町)出身であり、中学時代には地方に名の知れた柔道選手でもあった、一学年齢上の大乃国がこの場所新入幕で、同郷のライバルといわれ始める。同年9月場所に20歳で新入幕、いずれも同期生のなかでは一番早かった。1985年(昭和60年)から三役での好成績が目立ち始め、当時「将来の大関候補」とも呼ばれている。

1986年(昭和61年)3月場所、兄弟子の横綱・千代の富士が3日目から途中休場するが、それに奮起した保志が13勝2敗で自身念願の幕内初優勝を果たした(当時の5大関総撃破)。なお保志の優勝は史上初の四股名の読みが二文字の力士の幕内優勝であり2022年の九州場所阿炎政虎が優勝するまでは唯一の例であった。その次の5月場所は11勝4敗で、関脇の地位で3場所合計32勝を挙げたが、当時大関は5人も居たことや終盤優勝争いから完全脱落したことなどから不運にも見送られる。しかし翌7月場所も12勝3敗の好成績により、関脇で3場所計36勝で異論無しに当場所後ようやく大関昇進となった(尚この7月場所は北尾〈のち双羽黒〉の横綱昇進も懸かっており、その北尾が横綱昇進を決め大関が1人減ったことから「6大関」は実現しなかった)。ちなみに、この1986年の九重部屋の新年会では「関脇維持では格好悪い」という事で言い出して大関を目標としていたが、それが達成された形となった。

初土俵から本名の「保志」で相撲をとり続けていたため[注 1]本人曰く「志を保つという意味もある。」とも発言していた。大関昇進が決まると、師匠は四股名を考えたが、出身地の「十勝(とかち)地方」にちなんで、「北十海」「十勝海」[注 2]「十勝富士」などが候補だった。しかし十勝の「十」の字は、『勝ち星が10勝止まりになりそうで止めた方が良い』と九重が発言、「十勝」から読みは十(と)ではあるが字は「勝」として、「北勝海」と決めた。当時『「勝」の字を「と」と読ませるのは無理がある』という声も聞かれたが、その後の本人の横綱昇進や、八角部屋創設後、所属力士の四股名に多用されたこともあり、現在では違和感なく受け入れられている[注 3][4]。後の親方時代には改名当時を「私が強くなって、小学生にも北勝を『ほくと』と読ませてみせます、なんてえらそうなことを言ったんだよね。そのくらい気力も馬力もあった」と回想している[5]

大関昇進後、大関4場所目の1987年(昭和62年)3月場所には、上位陣総崩れの中12勝3敗の成績ながらも6場所ぶり2回目の幕内優勝となる。自身初の綱獲りだった翌5月場所は、12日目迄大関(当時)大乃国と共に12戦全勝だったが、13日目初対戦の平幕両国に苦杯を喫し1敗に後退。千秋楽で14戦全勝の大乃国と対戦するも、結局寄り倒されて13勝2敗と優勝次点の成績に終わる。15戦全勝優勝の大乃国とは2勝の差があり、千秋楽の後に日本相撲協会から横綱審議委員会へ諮問するとの公表も「横綱昇進は微妙」と報道された。しかし、それまでの北勝海の稽古熱心な所と品格の良さが横審委員会から高評価を得たことなどにより、満場一致で同場所後に大関5場所目での横綱昇進が決定した(同時に関脇小錦も大関に昇進となる)[4]。横綱昇進伝達式では「横綱の名をけがさぬよう、これからも一生懸命稽古し、努力します」と口上を述べた[6]
横綱時代

横綱土俵入りは兄弟子・千代の富士の指導の下、雲龍型を選択。新横綱の1987年7月場所は11勝4敗と優勝を逃したが、翌9月場所は14勝1敗で横綱初優勝、通算3回目の優勝を果たした。翌11月場所では13勝2敗の優勝次点の成績ながらも、自身初の年間最多勝に輝いた。しかし1988年(昭和63年)3月場所の千秋楽では、横綱大乃国に本割と優勝決定戦で連敗、逆転で優勝を奪われた。同年5月場所も終盤まで優勝を争ったものの、14日目に大関(当時)旭富士との取組前、支度部屋での準備運動で持病の腰痛を悪化させてしまい、翌日の千秋楽は自身初めての不戦敗・休場となる。次の7月場所からは腰痛が回復せず3場所連続全休となった[4]

再起をかけた翌1989年平成元年)1月場所は、直前に発熱も重なり出場が危ぶまれたが、昭和天皇崩御で初日が1日遅れたこともあって回復が初日に間に合い出場。初日から自身初の14連勝を達成、千秋楽に1敗の旭富士に敗れ自身初の全勝優勝は逸したが、14勝1敗同士の優勝決定戦でその旭富士に勝利し、8場所ぶり4回目の幕内優勝を果たして完全復活に嬉し涙を浮かべた。これが平成初の幕内最高優勝となった。また、同年5月場所でも13勝2敗同士の優勝決定戦に進出、再び旭富士を倒して5回目の幕内優勝を達成。さらに同7月場所では、12勝3敗の成績で千代の富士と史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦で対戦。敗れはしたものの、その後の相撲でも横綱として充分な強さを発揮して優勝回数も多く重ねていった[4]。また1989年11月場所は2場所連続で11勝4敗に留まったが、2年ぶり2度目の年間最多勝を受賞する。

1990年(平成2年)3月場所の千秋楽は、横綱北勝海、大関小錦、関脇霧島(場所後大関昇進)の3人の優勝決定巴戦となった。巴戦の場合は、1力士が2連勝すると優勝が決まるが、2連勝しない場合は延々対戦が続く。


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