北前船
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明治末から大正期に撮影した北前船(井田家旧蔵古写真・福井県立若狭歴史博物館蔵)復元北前船 みちのく丸兵庫県の淡路島を出発して瀬戸内海 - 日本海を回航し、北海道江差港に寄港した 復元北前船 辰悦丸(1986年6月)

北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称[1]。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。
概要千石船の1/5複製「天神丸」

当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸から下関を経由して瀬戸内海大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかうのことである。西廻り航路(西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地北海道樺太)にまで延長された。

畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの京都室町幕府が開かれ、畿内が経済だけでなく政治的にも日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。
歴史
江戸時代北国船の船絵馬

江戸時代になっても、経済面で上方京都大坂)の存在は大きかった。例年70,000石以上のを大坂で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。

一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率良く大量輸送するため、河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で、大坂市場は「天下の台所」として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船は、はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であった。18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した[2]。北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて、航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる[3]。これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。

また天明5年(1785年)に工楽松右衛門により、飛躍的に丈夫な帆布松右衛門帆(織帆)が発明された。従来は薄い綿布を重ね縫いした刺帆を使用していたが寿命が短く、この新帆布の登場により航行の長期化、効率化などが可能になり、類似のものも含め急速に普及していった。

しかし北前船は通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。こうした不便さや海難リスク、航路短縮を狙って、播磨国市川但馬国円山川を通る航路を開拓する計画(柳沢淇園らが推進)や、由良川保津川を経由する案が出たこともあったが、様々な利害関係が介在する複数の領地を跨る工事の困難さなどから実現はしなかった。
明治時代

明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見解もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。

明治維新以降の封建制の崩壊(廃藩置県)や電信郵便の登場は、各種商品相場の地域的な価格差を大きく減じさせ、一攫千金的な意味が無くなった。さらに日本全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、江戸期以降続く北前船の形態は消滅していった。

その後も北前船の船主たちは小樽や函館などを主な寄港地として、北海道のニシンを主な積み荷として北陸と北海道を結ぶ、北前船によく似た航海を明治後期頃まで行っていた。日露戦争において、ロシア海軍水雷艇が北海道沖の日本海を航行中の右近家所有の弁才船「八幡丸」を拿捕・撃沈した記録も残っている。
名称

北前とは上方の人間が北陸など日本海沿岸の北国方面を指して言う歴史的地域名称であり[4]、北国の物資を運んでくることから北前船と呼ばれた。北陸では北前船のことを「弁才船」と呼ぶが[1]、これは元々、瀬戸内海で発達した弁才船が北国と上方を瀬戸内海で結んだ西廻り航路の発達によって日本海沿岸にも進出していき全盛期の北前船の主力となったことから[4]
北前船の一年

1年1航海の場合

下り(
対馬海流に対して順流)

3月下旬頃、大阪を出帆。

4 - 5月、航路上の瀬戸内海・日本海で、途中商売をしながら北上。

5月下旬頃、蝦夷が島(北海道)に到着。


上り(対馬海流に対して逆流)

7月下旬頃、蝦夷が島を出帆。

8 - 10月、航路上の寄港地で商売をしながら南下。

11月上旬頃、大阪に到着。

北陸など各地の北前船の船員は、大阪から徒歩で地元に帰って正月を迎え、春先にまた徒歩で大阪に戻ってきた。
北前船の荷

下り荷(北国方面)に関しては以下の通りである。

蝦夷地の人々への飲食品(米や
砂糖)、瀬戸内海各地の塩(漁獲物の塩漬けに不可欠)、日常生活品(衣服や煙草、紙、瀬戸内沿岸産の蝋燭)、製品()など。また、近畿圏では木綿(大和絣など)・菜種(菜の花)など高級商品を栽培するために、北風家が介入して葛下郡築山村(当初広大な大谷村の一部)で「ぐろ田」法、「くろ田」法、「上げ田」法、「島畠」法、「島畑」法と言われる水田の土あげをして栽培する方法が開発された。司馬遼太郎の「菜の花の沖」の風景は、築山村近隣である、司馬遼太郎の母方の當麻での幼年時代の記憶がベースになっていると言われている。「ぐろ田」法は大和から河内に当初広まり、やがて畿内一円に広まり、北前船の下り荷の内容を助けることとなった。栽培に上り荷の干鰯鰊粕商品作物栽培のための肥料)などが大量消費されたことは言うまでもない。

上り荷(畿内方面)は殆どが海産物で、下り荷ほど種類は多くない。鰊粕商品作物栽培のための肥料)、数の子身欠きニシン、干しナマコ昆布干鰯などがある。
昆布ロード

日本料理・中国医薬で珍重された北海道の昆布は、北前船で直接または大坂から薩摩藩まで達し、さらに琉球王国経由でにまで当時鎖国政策中に日本から密輸出されており、薩摩藩の大きな収入源となり藩の財政を支えて、武器なども輸入されて、明治維新前の薩摩藩の台頭に大きく貢献した。


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