北別府学
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北別府 学基本情報
国籍
日本
出身地鹿児島県曽於郡末吉町(現:曽於市
生年月日 (1957-07-12) 1957年7月12日
没年月日 (2023-06-16) 2023年6月16日(65歳没)
身長
体重181 cm
85 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1975年 ドラフト1位
初出場1976年9月16日
最終出場1994年9月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


宮崎県立都城農業高等学校

広島東洋カープ (1976 - 1994)

コーチ歴


広島東洋カープ (2001 - 2004)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2012年
選出方法競技者表彰
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

北別府 学
YouTube
チャンネル

北別府学チャンネル

活動期間2019年7月31日 -
ジャンル野球
登録者数4790人
総再生回数363,106回
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-06-16-00002023年6月16日時点。
テンプレートを表示

北別府 学(きたべっぷ まなぶ、1957年7月12日[1] - 2023年6月16日[2])は、鹿児島県曽於郡末吉町(現曽於市[3]出身のプロ野球選手投手)。日本プロ野球名球会理事を務め[4]、晩年はYouTuberとしても活動していた。
経歴
プロ入り前

中学時代は最初テニス部に所属していたが、校内野球大会での活躍が認められ、後に野球部のエースピッチャーになった[3]宮崎県立都城農業高等学校で1年生からエースとして活躍。1974年、2年生時の夏の甲子園県予選では準決勝で延岡高に敗退。翌1975年春季九州大会1回戦では、伝習館高を相手に完全試合を達成する。しかし、同年夏も県予選準決勝で日南高完封を喫し、甲子園には出場できなかった。

1975年のドラフト会議にて1位指名され広島東洋カープに入団した[5]。担当スカウトは備前喜夫[6]。契約金は2000万円、年俸は200万円(金額は推定)[7]。同期には山根和夫長内孝小林誠二らがいる(山根は1977年入団)。甲子園には出場していないため、この時はまだ全国的には無名の存在で、広島スカウト陣以外には日本ハムファイターズ監督に就任したばかりの大沢啓二が注目したのみであった[5]。大沢は関係者から得た情報を基に北別府の指名を検討していたが、フロントやスカウト陣の反応は薄く、結局獲得は見送られてしまったという[5]。大沢は後に「無名の選手だったから獲得しようと思えば簡単にできた。指名できなかったのが心残りだ」と語っている。
プロ入り後

1976年、10月12日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)で6回4失点でプロ初勝利を飾った[8]

1977年から先発ローテーション入り。同年5月7日の対中日ドラゴンズ戦(広島市民球場)では9回2失点でプロ初完投勝利を挙げた[9]

1978年、6月3日の対読売ジャイアンツ戦(後楽園球場)でプロ初完封勝利を挙げ[10]、10月10日の対中日戦(ナゴヤ球場)では9回5失点完投勝ちでプロ入り初のシーズン10勝を飾った[11]

1979年、4月19日の対巨人戦(平和台球場)では5回無死無走者の打席で浅野啓司からプロ入り初本塁打、6回二死満塁の打席で鹿取義隆から走者一掃の3点適時二塁打を放ち、投げては9回4失点完投勝ちで投打に活躍した[12]。シーズンではチームトップの17勝を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献した[13][14]

1982年には10月10日の対中日戦(広島市民球場)で9回2失点完投勝ちでシーズン20勝[注 1][16]を挙げ、最多勝沢村賞を獲得[17][18]

1984年には山根の16勝に次ぐ13勝を挙げチームのリーグ優勝に貢献し、1985年には16勝6敗と貯金2桁を稼ぎ、この年に球史に残る猛打を記録し優勝した阪神タイガースから5勝1敗(2完封[注 2])と成績を残し、5月23日の対阪神戦(阪神甲子園球場)では6回無死無走者の打席でリチャード・ゲイルから自ら本塁打を放ち、投げては9回無失点で完封勝利を挙げた[19]

巨人と優勝を争った1986年には9月、10月で4度の完封勝利[注 3]を含む7勝0敗を記録しチームのリーグ優勝に大きく貢献。最多勝、最優秀防御率最高勝率MVP、沢村賞、ゴールデングラブ賞に輝いた[25][26][27]。優勝した試合は8回まで投げた時点で、9回も続投する予定であったが、自ら直訴し、最後は抑え津田恒実にマウンドを任せたという美談がある。津田は家族ぐるみで親交のあった後輩で、後に彼が脳腫瘍を発症した際にも、しばしば見舞っていた。オフの12月9日の契約更改では32パーセント増の推定年俸6000万円の掲示を保留[28]、同月24日の2度目の契約更改では48パーセント増の推定年俸6800万円でサインした[29]

1989年には12年続いていた規定投球回をクリアできなかった。1990年も2年連続規定投球回未到達で2年連続一桁勝利に終わり限界説が囁かれた。

1991年、9月3日の対阪神戦(阪神甲子園球場)では1988年4月8日以来の完封で3年ぶりの2桁勝利を飾った[30]。シーズンでは11勝を挙げ復活すると同時に最高勝率のタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献。

1992年、4月は15日の対巨人戦(東京ドーム)での完封勝利[31]を含む4連勝で6年ぶりの月間MVPを受賞[32]。7月16日の対中日戦(ナゴヤ球場)で球団史上初の200勝を達成[33]し、同時に日本プロ野球における1990年代で唯一の達成で20世紀最後の200勝到達でもあった。オフの12月8日の契約更改では2000万円増の推定年俸1億300万円でサインし、広島初の1億円プレーヤーとなった[34]。尚、広島のみに在籍して200勝を記録した投手は球団史上でも北別府のみである(NPBでは広島のみに在籍した選手の中でMLBでの記録を合算すると黒田博樹が達成している)。また、元号が昭和平成を通じて、広島一筋での200勝達成も北別府のみとなった。

1994年9月15日に、この年限りでの現役引退を表明[35]。同年8月21日の対巨人戦(広島市民球場)で5回に松井秀喜に本塁打を打たれ、金田正一の379を上回り、セ・リーグの最多被本塁打記録となる380を記録した。また、ホーム最終戦となる9月20日の対巨人戦では引退登板が予定されていたが、この年のセ・リーグは広島、巨人、中日の3チームが、終盤戦まで三つ巴の激しい優勝争いを繰り広げており、この日の試合も展開が二転三転する状況で遂に登板の機会に恵まれず、試合後に引退セレモニーのみが執り行われた。なお、この試合は8対7で広島が勝利し、引退試合は翌1995年3月12日のオープン戦にて行われた。
引退後

引退後は1995年から2000年までテレビ朝日広島ホームテレビ野球解説者に就任。2001年から2004年まで広島の投手コーチを務めた。2005年より2023年途中まで再び広島ホームテレビ野球解説者を務めた。2005年から2007年まではデイリースポーツ野球評論家も兼任。2007年9月、自身の野球人生を綴った自伝「それでも逃げない」(グラフ社刊、友野康治との共著)を出版し、娘が医学生であることを明かしている。

2010年からは沢村賞の選考委員を務めた。2012年1月13日野球殿堂に競技者表彰にて選出された[36]。2017年6月、学生野球資格を取得[37][38][39]

2018年5月30日私立英数学館高校硬式野球部のコーチ(非常勤)に就任[37][38][39]。2019年8月からはYouTubeに「北別府学チャンネル」を開設し、YouTuberとしての活動を始めた。
闘病生活と死去

2020年1月20日、2年前に成人T細胞白血病と診断されていたことを公表した[40][41]。5月5日、骨髄移植を受けるために入院[42]。ドナーとなった次男から骨髄の提供を受け、移植は成功し退院した。しかし、移植後の患者特有の合併症である移植片対宿主病(GVHD)の影響から、退院後も度重なる病気と怪我との闘病となった。

2021年6月、転倒して側頭部を10数針縫い、尾?骨を骨折。2021年11月、大腿骨骨折が判明して人工大腿骨に置換する手術を受けた[43]

2022年3月に尿毒症を発症し、さらに同年6月28日には、感染症から敗血症を患っていることを、妻がブログで公表する[44]2023年2月には帯状疱疹を発症するなど、入院を続けてきたが、同年6月16日、広島市内の病院で死去した[2]。65歳没。

葬儀・告別式は同月19日、広島市中区の斎場でOBを含めた球団関係者68人を含む191人が参列して営まれ、大野豊が弔辞を捧げた。式場には旧広島市民球場をモチーフにした祭壇が設置され、遺体は広島のチームカラーの真っ赤な棺に納められた。棺を乗せた車は旧広島市民球場跡地前を通り、その後荼毘に付された[45]。戒名は「不動院釈学心(ふどういんしゃくがくしん)」。
プレースタイル
制球力


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