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出典検索?: "北元"
公用語モンゴル語
首都カラコルム(名目上)
皇帝(ハーン)
1368年 - 1370年恵宗 ウカアト・ハーン
1634年 - 1635年エジェイ・ハーン
面積
1550年5,000,000km²
変遷
元の北走1368年
トグス・テムルの死去1388年
諸部族に分割15世紀
後金によって滅亡1635年
通貨物々交換
現在 モンゴル
ロシア
中華人民共和国(内蒙古)
北元(ほくげん、?音:B?iyuan)は、1368年に、元(大元)の第14代ハーンのトゴン・テムル・ハーン(在位:1333年 - 1370年)が長江流域に興った明の北伐を逃れて大都(現在の北京)からモンゴル高原に撤退し、中国の漢民族定住農耕地域を失ってから後の大元ウルス(モンゴル帝国の皇帝直轄政権)についての後世の呼び方のことである。この政権に属する遊牧諸部族を同時代の漢文史料では韃靼(だったん、?音:dada)と呼び、日本では韃靼のカタカナ表記であるタタールという名称も用いられる。 元は、1368年に大都を放棄し、モンゴル高原を中心に中国の漢民族地域より北方の一帯を支配する政権となった。この政権をそれまでの中国を支配した元と区別して「北元」とする[1]。ただし、北元の当事者たちは、自分らの政権は依然として「元(自称は大元)」であると自覚しており、民族の自称は「モンゴル国」であった[2]。 中国統一王朝が滅亡に際して避難し地域再興した先例としては東晋、南宋などがあるが、「北元」はこれらの王朝と異なり中国主要部を完全に放棄したため中国史の主要な記載から姿を消す。一方で、統一王朝瓦解に際して元の皇帝と皇太子がそのまま北方に避難して宮廷が温存されたという点では、この「北元」は中国史として唯一の例である。 北元では、1388年にトゴン・テムルの子トグス・テムル・ハーンがアリクブケ裔のイェスデルによって殺害されてハーン位を簒奪され、元の事実上の始祖であるクビライ裔の皇統が一時的に断絶した。 1388年以降もモンゴルには元の皇帝の後継者を名乗るハーンが立ち続けていたが、中国の漢民族地域を支配した明は、モンゴル人による中国王朝である元は1368年のモンゴル高原への北走によって正統中国王朝の地位を喪失し、1388年の皇統断絶により完全に元が滅亡した、という解釈の立場を取っている。 モンゴル自身はモンゴルを自称とし続けたにもかかわらず、これ以降のモンゴルのことを「韃靼」(だったん:本来はモンゴル高原の一遊牧部族タタル部のこと)と呼んだ。 明の歴史を記した『明史』でも、この時代のモンゴルの歴史は「韃靼伝」に記されている。明の滅亡後、韃靼の呼称は用いられなくなり、清ではモンゴルの音訳である「蒙古」の呼称を復活させている。 日本でも明史の用例に倣い、一般的には、1388年をもって北元は滅亡したと見なし、以降のモンゴルを「韃靼」あるいは「タタール」と呼んできたが、中国でモンゴルを韃靼あるいはタタールと呼び変えたことは、あくまで元の連続性を否定する必要があった明代特有の事情によるものに過ぎない[3]。
定義