北京大学
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北京大学北京大学の華表
モットー正式な校訓なし
種別国立
設立年1898年
学長?平
党委書記邱水平
教員数6441
学生総数35,915(2016年)
学部生14,116(2016年)
大学院生21,799(2016年)
所在地 中華人民共和国 北京市 海淀区
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度59分23秒 東経116度18分19秒 / 北緯39.98972度 東経116.30528度 / 39.98972; 116.30528座標: 北緯39度59分23秒 東経116度18分19秒 / 北緯39.98972度 東経116.30528度 / 39.98972; 116.30528
キャンパス都市型
739エーカー (299 ha)
スクールカラー北大紅[1]
中華人民共和国教育部
公式サイトhttps://www.pku.edu.cn/

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地図

北京大学(ペキンだいがく、ピンイン:B?ij?ng Daxue、: Peking University)は、北京市海淀区に所在する中華人民共和国国立大学である。1898年に創立された、近代中国初の国立総合大学である[2]大学の略称は北大(ベイダァ)。985工程211工程九校連盟双一流の成員校として、教育部が直轄する国家重点大学である。数多くの中国の政治家、学者等の文化人を輩出しており、多くのランキングで中国首位、アジア首位を維持している[3]中国国内最高峰の大学である[4]
概観
大学全体

国家重点大学及び副部級大学のひとつであり、中国の近代化に大きな影響を与えてきた。大学評価の世界的指標であるタイムズ・ハイアー・エデュケーションによる「THE世界大学ランキング2024」では世界14位[5]、「QS世界大学ランキング2024年」では世界17位、「QSアジア大学ランキング」では連続でアジア1位[6]となった[7]全国普通高等学校招生入学考試の「状元」(各省・自治区・直轄市における大学統一入試の成績最優秀者)の多くは進学先に北京大学を選択している[8]。また、留学生が本科生に入学する際には入学試験が課せられるが、HSKの要求スコアが他の大学よりも高い。周辺(離宮の敷地内)には頤和園円明園などの歴史史跡が数多く残されてあり、「中国のシリコンバレー」と呼ばれる中関村も隣接している。
校訓

北京大学で広く用いられる「勤奮、厳謹、求実、創新」、「博学、審問、慎思、明辨」、「愛国、進歩、民主、科学」、「思想の自由、両方を兼ね備える」はいずれも校訓ではない。
校歌

蔡元培が学長に就任したとき、文系の呉梅教授が「正宮錦巻道・寄北雍諸生」を北京大学の校歌に選んだが、大学側は決定を否定している。また、校内で広く歌われている「燕園情」も校歌ではない。
略歴
京師大学堂時代

1898年清朝政府により、隋代に起源を持つ北京国子監を近代化した京師大学堂として、北京に設立される。これは、日清戦争敗北の反省から起こった戊戌の変法運動により、救国の近代化政策のひとつとして実行された[9]。初代学長には管学大臣の孫家?が就いた(-1900)。しかし数か月で戊戌政変により改革派は処分され、旧教育内容に戻される。

1900年義和団事件により西太后が京師大学堂停止を下令、大学堂は八か国連合軍が占領。

1902年光緒新政により大学堂再開、三代学長に管学大臣の張百煕就任(-1904)。工学・農学を大学内に含めるなど日本式をモデルにし、米国からの教員を解雇して服部宇之吉、岩谷孫蔵ら日本人教師を多数招聘、日本留学も推奨された[10][9]京師同文館を吸収。

1903年、医学実業館開設(1912年に北京医学専門学校として独立)[9]

1904年、分科大学教員養成のため留学生海外派遣(西洋16名、日本31名)[9]

1911年辛亥革命勃発により京師大学堂の臨時運営停止が下令[9]

北京大学改名後

1912年、名称を北京大学に変更(中華民国 (1912年-1949年)樹立のため)。

1917年蔡元培が北京大学の校長となり、陳独秀李大サ魯迅胡適らを教授に迎えて学風を一新。
これ以降、北京大学の教授・学生が、五四運動に多数参加するなど、反帝国主義の動きが盛んになる。学内で、共産主義的傾向が強まる。

1937年日中戦争支那事変)のため、清華大学南開大学とともに、長沙に移転し、両大学とともに、長沙臨時大学を構成する。

1938年、長沙にも日本軍の勢力が伸びてきたために、昆明に再移転し、国立西南連合大学と改称する。

1937年-1945年の間、日本の影響下にあった汪兆銘政権の下で「北京大学」と称して北京の校舎と移転に従わなかった教授らで構成する大学運営が行われた。


1945年、対日戦争終結により、北京の元来の敷地に戻る。

1946年7月、北平大学医学院を吸収合併する。

1946年10月、正式に旧来の北京大学に戻す。

1952年中華人民共和国成立に伴う高校間の学部などの調整により、北京大学は、「文系と理系に関する基礎的な教育研究を行う総合大学」として位置付けられた。また、この際に北京大学医学部(もとの北平大学医学院に相当)を分離する。

1966年5月、構内に掲示された反革命批判の壁新聞から、文化大革命の嵐が吹き始めることとなった。

2000年4月3日、北京大学医学部を再び吸収合併する。

2002年東京大学理化学研究所との間で連絡事務所を設置。

2004年ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)が北京大学のパートナーになる。LSEの講師によるサマースクールを北京大学の構内で行うほか、国際情勢 (international affairs)に関する修士課程のデュアル・ディグリー制度を開始。グローバル・パブリック・ポリシー・ネットワークに参加する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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