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北九州市病院長殺害事件
日本:福岡県・大分県
監禁・殺害現場:福岡県北九州市小倉北区堺町一丁目5番12号:「エルザビル」[注 1]4階にあったスナック「ピラニア」[4](加害者Yが経営)[5]
死体遺棄現場:大分県・国東半島沖[6](周防灘)[7]
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度52分55.15秒 東経130度52分59.06秒 / 北緯33.8819861度 東経130.8830722度 / 33.8819861; 130.8830722座標: 北緯33度52分55.15秒 東経130度52分59.06秒 / 北緯33.8819861度 東経130.8830722度 / 33.8819861; 130.8830722
標的病院長の男性A(当時61歳:「ピラニア」の常連客)[6]
日付1979年(昭和54年)11月4日 - 5日[7]
4日21時過ぎ(Aが「ピラニア」に来店)[8] – 5日13時前(Aを殺害)[5] (UTC+9)
概要男2人(釣具店経営者およびスナック経営者)が共謀の上、スナックの常連客だった病院長を誘い出し、あいくちで斬りつけたり、首を絞めたりして殺害[6]。死体をバラバラに解体し、フェリーから海に捨てた[6]。
攻撃手段
(殺害の手段)あいくちで斬りつけて重傷を負わせ、両手で首を絞める[9]
(死体遺棄の手段)死体をバラバラに解体した上で、フェリーから海に投げ捨てる[7]
攻撃側人数2人
武器あいくち[注 2](刃渡り約30 cm)[10]
死亡者1人[11]
被害者男性A(事件当時61歳:病院長)
損害約95万円[12]
犯人男2人
動機楽な方法で大金を得るため[13]
謝罪2被告人とも公判で反省の意を示した[11]
賠償加害者Yは事件後、店を処分して作った300万円を財団法人犯罪被害救援基金に寄託[11]
刑事訴訟加害者2人とも死刑(上告棄却により確定:執行済み)
影響事件後、Aの経営していた病院は廃業した[14]。本事件以降も北九州市内での殺人事件や同市出身者による殺傷事件[注 3]が相次いで発生、市の対外イメージが悪化した(#事件の影響)。
管轄
福岡県警察・大分県警察[15]
福岡地方検察庁小倉支部[16]
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北九州市病院長殺害事件(きたきゅうしゅうし びょういんちょうさつがいじけん)は、1979年(昭和54年)11月4日から5日にかけて福岡県北九州市小倉北区で発生した強盗殺人・死体遺棄(バラバラ殺人)事件である。
男2人が大病院を経営していた男性A(当時61歳)を金目的で殺害し、死体をバラバラにした上で大分県(国東半島)沖の海に投棄した。犯人2人は1988年(昭和63年)に最高裁で死刑判決が確定し[17]、1996年(平成8年)に死刑を執行されている[18]。
1983年(昭和58年)に最高裁が死刑適用基準として「永山基準」を示して以降、2009年(平成21年)3月時点までに殺害された被害者が1人の事件で、複数の被告人の死刑が確定した事例は、本事件が唯一である[注 4][注 5][20][23]。 犯人の男2人(本文中SおよびY)は、それぞれ北九州市小倉北区内で釣具店とスナックを経営していたが、遊惰な生活を夢見て一攫千金を狙い、加害者Yが経営していたスナック「ピラニア」(小倉北区堺町一丁目5番12号)[4]の常連客であり[6]、市内で病院を経営していた男性A[9](当時61歳)に目をつけ[6]、大金を奪った上で殺害する完全犯罪を計画[12]。犯行の日時場所、脅迫方法、金品の強奪方法、犯行の隠蔽方法(死体の解体・遺棄など)などについて、事前に綿密な計画を練り上げた[12]。 1979年11月4日夜、2人は被害者Aをスナック「ピラニア」に誘い出し[6]、あいくちで左脇腹を斬りつけて瀕死の重傷を負わせ、現金約95万円を強奪したほか、Aの妻に電話を掛けさせ、2,000万円を持参するよう指示させたが失敗[24]。口封じのため[6]、翌5日昼に[5] 瀕死状態のAを絞殺し、死体をバラバラに解体して[25]、小倉港発松山港行きのフェリー「はやとも丸」から[26]、国東半島(大分県)沖の海[6](周防灘)に投棄した[27]。2人は犯行後に数々の証拠隠滅を図ったが[28]、翌1980年(昭和55年)3月から4月にかけて福岡県警の調べに対し、相次いで犯行を自供[26][29]。本事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で逮捕・起訴された[16] ほか、Sは恐喝未遂の余罪でも起訴されている[30]。 刑事裁判で被告人として起訴された犯人2人は、ともに自身の主導性を否定し「相手が主犯だ」と主張し合った[7][6]。しかし第一審の福岡地裁小倉支部 (1982) は、発案および殺害の実行行為を2人の共同行為と認定[7][6]。犯行の計画性の高さ・残忍さ、動機の悪質さなどに加え、2人がそれぞれ相手に責任を転嫁しようとしている態度を「反省がない」と指摘し、ともに死刑とする判決を言い渡した[7][6]。福岡高裁 (1984) および最高裁第二小法廷 (1988) もそれぞれ原判決を支持し[17][31]、1988年5月に2人の死刑が確定[32]。死刑囚2人は、事件から17年後の1996年7月11日に福岡拘置所[注 6]で死刑を執行された[18]。
概要