北上川
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北上川
展勝地対岸より(北上市)
水系一級水系 北上川
種別一級河川
延長249 km
平均流量391 m³/s
(登米観測所(1952年 - 2002年))
流域面積10,150 km²
水源弓弭の泉(岩手県、正確な表記は"源泉"となる)
水源の標高-- m
河口・合流先追波湾(宮城県)
流域 日本
岩手県宮城県

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北上川(きたかみがわ)は、岩手県中央部を北から南に流れ宮城県東部の石巻市追波湾に注ぐ一級河川。北上川水系の本流であり、流路延長249 km、流域面積10,150 km2は、東北地方の河川の中では最大で、日本全国では4番目の規模である[1]。日本の河川としては勾配がかなり緩いことが特徴である。太平洋に流れる。
地理盛岡市内、開運橋付近を流れる北上川。平泉町、高館より北方の陣場山方面を望む。石巻市、仙台湾に注ぐ旧北上川(震災前風景。河口にある橋は日和大橋。令和4年3月30日に、日和大橋から内陸側500メートル程度の位置に石巻かわみなと大橋が開通している)

岩手県岩手郡岩手町の弓弭の泉[注釈 1](ゆはずのいずみ)に源を発し、盛岡市花巻市北上市奥州市一関市などを通って北から南へと流れる。宮城県登米市で旧北上川を分け、洪水防止のため開削された新北上川に入る。東へ向きを変え、石巻市の旧北上町地区で追波湾に注ぐ。旧北上川はそのまま南へ流れ、石巻市石巻湾に注ぐ。
流域の自治体
岩手県
岩手郡岩手町滝沢市盛岡市紫波郡矢巾町紫波町花巻市北上市胆沢郡金ケ崎町奥州市西磐井郡平泉町一関市
宮城県
登米市石巻市
文化

宮沢賢治(花巻市)、石川啄木(盛岡市)など流域出身者の作品にも取り上げられた。花巻市の東部、猿ヶ石川合流点の西岸は宮沢賢治がドーヴァー海峡を想起し名付けた「イギリス海岸」があり、西磐井郡平泉町には北上川が一望できる義経堂がある。

北上川流域には、日本ハリストス正教会教会が多く分布している[2]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}これは、明治初期における北上川の河川交通との関わりが深い[要出典]。
語源

川の名前は『日本書紀』に出たが、未だに位置を特定されていない「日高見国」に由来すると言われる。「日高見国の母なる川」という意味で「ひたかみ」と呼ばれたが、のちに転訛して「きたかみ」となり、やがて「北上」と当て字をするようになったと言われている[3]
北上川開発史
江戸時代以前の開発状況支流・和賀川北上市上空より)
写真中央に石羽根ダム、上方に錦秋湖湯田ダム)が見える。左側の帯状の線は秋田自動車道

北上川流域には、平安時代末期に藤原清衡が中流域の平泉一帯に大勢力を築いていたが(奥州藤原氏)、中世においては在地の小豪族による争いが繰り返された。このため度々の水害に悩まされながらも、流域の治水・開発事業はほとんど手付かずのままであった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉奥州仕置によって北上川流域の在地豪族のほとんどが改易され、南部信直が上・中流域を、伊達政宗が下流域を支配することになり、江戸時代には引き続き南部氏盛岡藩伊達氏仙台藩によって統治された。北上川流域の本格的な開発が始まるのは、この両藩によってである。

まず治水面については、仙台藩では寺池城主・白石宗直(相模守)が、慶長10年(1605年)に佐沼で合流していた北上川と迫川の分流工事に着手。慶長16年(1611年)に完成したこの堤防は相模土手と呼ばれ、これによって栗原郡登米郡一帯の新田開発が促された。

さらに宗直の子・白石宗貞(若狭守)の代には若狭土手が完成し、治水は更に強化された。一方の盛岡藩では、信直が晩年に居城を盛岡城に移したが、北上川・雫石川・中津川の三本の河川が合流するこの地点は頻繁に洪水の被害を受けた。第3代藩主・南部重信は、盛岡城下町を水害から守るため、延宝8年(1680年)に雫石川と北上川の合流点に岩石を投入して水勢を弱める工事に着手。この事業は元禄15年(1702年)、第5代藩主・南部信恩の代まで続けられた。

利水面においては、仙台藩領の寿庵堰がよく知られている。北上川本流は鉱毒によって汚染されていたため、直接水を引くことが出来ず、取水は支流の河川から行わざるを得なかった。胆沢郡においては胆沢川の河水を利用していたが、天候による流量の増減が大きく水の安定供給が求められていた。そこで元和4年(1618年)、胆沢郡福原館主・後藤寿庵は、郡内の灌漑に供するための用水路を整備する事業に取り掛かった。ところがキリシタンであった寿庵が禁教令に従うことを拒んで仙台藩から出奔したため工事は頓挫する。しかしこの事業の重要性を認識していた政宗は、寛永2年(1625年)に千田左馬と遠藤大学に命じて工事を再開させ、寛永8年(1631年)には全長約43.0kmに及ぶ用水路が完成し、胆沢郡内の約3,000h aに及ぶ田畑への給水が可能となった。この寿庵堰は河川の水位を利用して胴(ど)と呼ばれる水管が水量を細かに調整するサイフォン式の設備を備えており、これにより安定した水量を水田に供給する事が可能となった。

これらの治水・利水事業の成果により、仙台藩は表高62万石に対して実高100万石、盛岡藩は表高10万石に対して実高23万石とも言われる収入を得て、収穫した米を江戸大坂等に運んで売却した。

工事に際しては、当時は迷信が幅を利かせていたこともあり、水神の祟りを鎮める為として人柱が立てられ、その悲話が今に伝えられている。代表的なものとしては、若狭土手を築く際には「お鶴」という女性が生き埋めにされ、宿内川に千貫石堤(元禄4年(1691年)完成)を築く際には、「お石」という女性が千貫で買われ、牛と共に水神に捧げられたと伝わる。また、北上川中流域の紫波郡和賀郡稗貫郡では、支流河川の流量が少ないために水争いが絶えず、特に紫波郡では、俗に志和の水喧嘩と称される死者が出るほどの激しい抗争が繰り広げられた。これらの地域における水不足の根本的な解消は、昭和27年(1952年)の山王海ダムの完成を待たなければならなかった。
近代河川工事?付替えと運河?

明治時代に入ると政府主導による治水工事が各地で行われたが、その代表的なものに旧内務省による「北上川改修工事事業」がある。北上川は、かつて石巻を貫流して仙台湾へと注いでいたが、度重なる洪水から石巻などの下流地域を守るため、下流域の手前から分流させる工事に着手することとなった。1911年(明治44年)から1934年昭和9年)[4]までの23年をかけて北上川を登米市付近で派川である追波川を利用した開削工事を実施。旧北上川と新北上川に流れを分け、新北上川を放水路として東の追波湾へ遷させた。旧北上川についても1920年大正9年)より1932年(昭和7年)まで12年の期間をかけて北上川の分流工事と河川の改修工事を行い、分流堰として鴇波洗堰脇谷洗堰が建設され、水運確保のための脇谷閘門も設置した。また分流地点より下流には飯野川可動堰が建設され、洪水調節と用水確保が図られる。一方、江戸時代に迫川との合流工事が実施された江合川も、北上川と同様に洪水を分散させるために新江合川を開削。鳴瀬川に合流させる事によって仙台平野の水害を防除することを試みた。

水運整備では、野蒜築港の建設に合わせて北上川と鳴瀬川河口を結ぶ北上運河が1882年(明治15年)に竣工した[5]。この他にも仙台湾沿岸で運河の整備構築が行われ、鳴瀬川河口と松島湾の間には東名運河が開削され、松島湾から阿武隈川河口の間では既存の水路が改修されて一続きになり貞山運河となった。こうして、北上川はこれらの運河群を通じて野蒜や塩竈、阿武隈川と結ばれることになった[6][7]。1960年代後半に仙台港建設の影響で貞山運河の一部は失われ[8]、現在、北上川から運河を通じて結ばれているのは仙台港までである。
北上川5大ダム計画の胎動

昭和に入り、TVA(テネシー川流域開発公社)の影響を受けた当時のダム技術・理論の第一人者・物部長穂は水系を一貫して総合的な開発を行う事により、治水・水力発電灌漑上水道といった複数の目的を同時に果たす事を可能とする『河水統制計画案』を纏めた。これは内務省官僚・青山壮によって採用され、1938年(昭和13年)に全国の7河川と諏訪湖を対象とした「河水統制事業」が実施される事となった。東北地方では奥入瀬川と浅瀬石川が対象となっている。

北上川についても、一関市より登米市に至る流域は両側に山地が迫り川幅が急に狭くなる地形となっていた。いわゆる「北上川癌狭窄部」によって洪水流下能力は阻害され、一関市は特に洪水の被害が頻発していた。これに対し内務省はダムによる洪水調節を行って一関市狐禅寺地点で洪水流量を浸水が起きない程度に低減させる事とした。これは「北上川上流改修計画」と呼ばれ、その根幹事業として北上川本川・雫石川・猿ヶ石川・和賀川・胆沢川の岩手県内主要支川におけるダム計画が立案された。いわゆる北上川5大ダム事業の誕生である。内務省は一番目に猿ヶ石川中流部にダム建設を計画した。これが田瀬ダムであり、国が直轄事業として建設に着手したダムとしては最初の例である。1941年(昭和16年)より工事は開始されたが、太平洋戦争の激化により事業は1944年(昭和19年)8月の『決戦非常措置要領』の発令により中止となった。
食糧増産と灌漑事業

終戦後、内務省は「北上川上流改修計画」を再始動させたが、当時は極端な食糧不足が問題となっていた。この為治水よりも農地開墾の為の灌漑用水の整備が最も重視された。この為北上川5大ダム事業のうち、灌漑効果が大きいと考えられた胆沢川のダム計画が優先され、終戦直後の1945年(昭和20年)秋より工事に着手されている。この石淵ダムは日本で最初に事業着手されたロックフィルダムとして有名である(尚、最初に完成したのは岐阜県小渕ダム(久々利川)である)。田瀬ダムの工事は中断されたままであり、尚且つ一旦ダム建設の為に立ち退いた住民に対し内務省は開墾・耕作の為の帰郷を認めた。この後再度立ち退きの為の補償交渉が持たれる事になるが、当時の食糧事情による特殊な事例であった。

一方農林省(現・農林水産省)は1947年(昭和22年)より全国4水系において「国営土地改良事業」に着手した。農業版河川総合開発ともいえるこの事業は北上川流域でも強力に実施された。一大穀倉地帯でありながら北上川本川は酸性度の強い河川であった為利用できず、旱魃の際には凄惨な水争いが各地で繰り広げられた。これを根本的に解消すべく、「国営山王海農業水利事業」等の国営事業を展開。山王海ダム(滝名川)・豊沢ダム(豊沢川)・岩洞ダム(丹藤川)・荒砥沢ダム(二迫川)等農林水産省直轄ダムを建設、頭首工用水路を整備して灌漑整備を行った。この結果安定した用水供給による農地拡大が実現し、仙台平野はササニシキを始めとした日本有数のコメの名産地となった。
台風で改められた河川改修

1947年(昭和22年)は、7月-8月に大規模な氾濫をもたらす集中豪雨があった[9]後の9月にカスリーン台風が、さらに翌1948年(昭和23年)のアイオン台風に襲来するなど、北上川流域には2年連続で大規模な水害に見舞われ、一関市等では甚大な被害を受けた。宮城県でも低湿地帯の多い登米郡栗原郡付近において被害は甚大だった。

内務省解体後河川事業を継承した建設省(現・国土交通省)は相次ぐ水害を受け従来の「北上川上流改修計画」の改訂を迫られた。この頃は全国各地で水害が頻発しており、経済復興の阻害になると考えた経済安定本部は諮問機関である「治水審査会」に諮り、利根川信濃川淀川等全国主要10水系を対象に、多目的ダムを中心とした総合的河川開発を推進した。これが『河川改定改修計画案』であるが、北上川水系においては上流と下流で別個の河川改定改修計画が立案された。上流部は旧計画を発展させた「北上川上流改定改修計画」であり、北上川5大ダムの建設予定地や規模を変更して一関市狐禅寺地点での洪水流量を更に低減させる事を目標とした。


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