北一輝
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生年 (1883-04-03) 1883年4月3日
生地 日本新潟県加茂郡湊町
(現在の佐渡市両津湊)
没年 (1937-08-19) 1937年8月19日(54歳没)
没地 日本東京府
思想社会主義
日蓮主義
国家社会主義
活動大日本帝国憲法における天皇制の批判。中国の辛亥革命への参加。日本改造法案大綱で日本の「国家改造」を提唱。二・二六事件で理論的指導者の一人として、銃殺刑に処される。
所属孫文らの中国同盟会
辛亥革命に身を投じ、帰国後、
満川らの猶存社を経て以降、所属なし
裁判二・二六事件 背後関係処断
[判決言渡] 1937年8月14日
死刑 銃殺刑
[ 刑執行 ] 5日後、8月19日
[ 特設軍法会議 ] 一審制
非公開、弁護人なし、上告不可
国家転覆罪/叛乱罪
(反乱幇助)
刑場東京陸軍刑務所
記念碑二・二六事件慰霊碑渋谷区)、北一輝先生碑(目黒区
母校旧制佐渡中学校、早稲田大学
信教日蓮宗
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北一輝

北 一輝(きた いっき、1883年明治16年〉4月3日 - 1937年昭和12年〉8月19日)は、戦前日本思想家社会運動家国家社会主義者。本名は北 輝次郎(きた てるじろう)。二・二六事件皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。

日蓮宗と労働者の主権、社会主義を結び付けた独特の思想を発表したことで知られる。
生涯

1883年(明治16年)4月3日新潟県加茂郡湊町(現:佐渡市両津湊)の裕福な酒造業・北慶太郎と妻リクの長男輝次として生まれる。父慶太郎は初代両津町長を務めた人物で2歳下の弟は衆議院議員北ヤ吉。ほかに4歳上の姉と、4歳下の弟がいた。尋常小学校の半ばに右目の眼疾により1年間休学する[1]

1897年(明治30年)に前年に創設されたばかりの旧制佐渡中学校(新制:佐渡高校)に一期生として入学、翌1898年(明治31年)にとび級試験を受け、3年生に進級する。1899年(明治32年)に眼病のため帝大病院に入院し、夏頃まで東京に滞在した。「プテレギーム(翼状片)」と診断され、当時の眼科の権威河本重次郎による手術を受けたがよくならなかった[2][3]1900年(明治33年)に眼病による学業不振のため5年生への進級に失敗し、さらに父の家業が傾いたことも重なり退学した。

1901年(明治34年)には新潟の眼科院に7ヶ月間入院した。上京し幸徳秋水堺利彦平民社の運動に関心を持ち、社会主義思想に接近した。帰郷中山路を散策した際に木の枝で右目を傷つけてしまい、父親が山林を売り払って治療費を作り、河本博士により再手術を行なったが失明[2]1903年(明治36年)に父が死去。10月「輝次郎」と改名した。森知幾が創刊した『佐渡新聞』紙上に次々と日露開戦論、国体論批判などの論文を発表、国家や帝国主義に否定的だった幸徳たちと一線を画し、国家を前提とした社会主義を構想するようになる。北は国家における国民と天皇の関係に注目し、『国民対皇室の歴史的観察』で「天皇は国民に近い家族のような存在だ」と反論。たった2日で連載中止となった。弟れい吉早稲田大学に入学すると、その後を追うように上京、同大学の政治経済学部生となる。有賀長雄穂積八束といった学者の講義を聴講し、著書を読破すると、さらに図書館に通いつめて社会科学や思想関連の本を読んで抜き書きを作り、独学で研究を進める。

1906年明治39年)に処女作『国体論及び純正社会主義』(『國體論及び純正社會主義』)を刊行。自費出版の大著で、河上肇、片山潜、福田徳三の絶賛を受けたという[4]大日本帝国憲法における天皇制を批判したこの本は発売から5日で発禁処分となり、北自身は要注意人物とされ、警察の監視対象となった。内容は法学哲学政治学経済学生物学など多岐に渡るが、それらを個別に論ずるのではなく、統一的に論ずることによって学問の体系化を試みた所に特徴があった。すなわち、北一輝の「純正社会主義」なる理念は、人間と社会についての一般理論を目指したものであった。その書において最も力を入れたのが、通俗的「国体論」の破壊であった。著書が発禁となる失意の中で、北は宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。

1911年(明治44年)に間淵ヤス(すず子)と知り合う。同年10月、宋教仁からの電報により黒龍会『時事月函』特派員記者として上海に行き、宋教仁のもとに身を寄せた。1913年(大正2年、中華民国2年)3月22日、農林総長であった宋教仁が上海北停車場で暗殺され、その犯人が孫文であると新聞などにも発表したため、4月上海日本総領事館の総領事有吉明に3年間の退清命令を受け帰国した。この経験は『支那革命外史』としてまとめられ出版される。これは大隈重信内閣総理大臣や政府要人たちへの入説の書として書き上げられたもので、日本の対中外交の転換を促しており、第一次世界大戦で日本が対華21カ条要求を中国に認めさせたことを批判している。

1916年(大正5年)に間淵ヤスと入籍、上海の北四川路にある日本人の医院に行った。この頃から一輝と名乗る。1919年(大正8年、中華民国8年)そこに出入りしていた清水行之助、岩田富美夫らが日華相愛会の顧問を約40日の断食後に『国家改造案原理大綱』(ガリ版47部、『日本改造法案大綱』と1923年に改題)を書き上げていた北に依頼した。1920年(大正9年、中華民国9年)8月、上海を訪問した大川周明満川亀太郎らによって帰国を要請され、12月31日に清水行之助とともに帰国。

1921年(大正10年)1月4日から猶存社の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになる。1923年(大正12年)猶存社が解散。「日本改造法案大綱」が改造社から、出版法違反なるも一部伏字で発刊された。これは、議会を通した改造に限界を感じ、「軍事革命=クーデター」による改造を諭し、二・二六事件の首謀者である青年将校の村中孝次磯部浅一栗原安秀中橋基明らに影響を与えた。また、私有財産や土地に一定の制限を設け、資本の集中を防ぎ、さらに華族制度にも触れ、“特権階級”が天皇と国民を隔てる「藩屏」だと指摘。その撤去を主張した。

この頃東京・千駄ヶ谷、後に牛込納戸町に転居し母リクの姪・従姉妹のムツを家事手伝いとして暮らした。日本帰国後しばらくは貧窮していたとされるが、帰国後すぐに宮中某重大事件に関り、さらに収監中の朴烈金子文子が便宜を図ってもらい、会わせてもらったとされる写真が流出したという怪写真事件を政治問題化させ倒閣運動を展開した[4]1926年(大正15年)安田共済生命事件。北の子分の清水行之助が血染めの着物を着て安田生命にあらわれ、会社を威嚇した[5]


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