北の湖敏満
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北の湖 敏満


基礎情報
四股名北の湖 敏満
本名小畑 敏満
愛称北の怪童・大相撲の申し子・不沈艦[1]・憎らしいほど強い横綱・モンスター・コンピューター付きブルドーザー
生年月日1953年5月16日
没年月日 (2015-11-20) 2015年11月20日(62歳没)
出身 北海道有珠郡壮瞥町
身長181cm[2]
体重170kg[2]
BMI51.89
所属部屋三保ヶ関部屋
得意技左四つ、寄り、上手投げ[2]
成績
現在の番付引退
最高位第55代横綱[2]
生涯戦歴951勝350敗107休(109場所)
幕内戦歴804勝247敗107休(78場所)
優勝幕内最高優勝24回
殊勲賞2回
敢闘賞1回
データ
初土俵1967年1月場所
入幕1972年1月場所
引退1985年1月場所
引退後第9・12代日本相撲協会理事長
備考
金星1個(北の富士1個)
2019年7月3日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

北の湖 敏満 (きたのうみ としみつ、1953年(昭和28年)5月16日 - 2015年(平成27年)11月20日[3])は、北海道有珠郡壮瞥町出身で三保ヶ関部屋に所属した大相撲力士。第55代横綱。本名は小畑 敏満(おばた としみつ)。血液型はAB型[4]。元日本相撲協会理事長(第9代、第12代)。従四位。息子は俳優の北斗潤。
来歴
誕生

1953年昭和28年)5月16日土曜日)、有珠郡の農業協同組合職員の家で8人兄弟の7番目、四男として誕生した[5]。奇しくもこの日はNHKによって初めてテレビの大相撲中継が行われた日であった[6]。当時は同じ北海道松前郡出身で第41代横綱・千代の山の全盛期であった。

幼い頃から食欲旺盛だったことから堅太りであった。母は平成初期に「今のように物の豊富な時代でないからねえ。8人も兄弟がいるから、自分だけたくさん食べるわけにいかない。みんなが食べた後で、おひつに残ったご飯をたいらげていた。納豆があの子のごちそうで、弁当にも納豆を入れてくれと」とスポーツ紙に当時に関する証言を寄せている。[7]特に小学校6年生からの成長ぶりが著しく、12歳の時に身長160cm強、体重60kg程度の体格だったものが、13歳の中学1年生の時点で、既に身長173cm、体重100kgに達していた[5]。恵まれた体格であってもただの巨漢ではなくスポーツ万能、特に柔道は滅法強く、中学1年生で初段となり、町の柔道大会「胆振西部大会」では体格も倍以上あった高校生を破って優勝した。柔道が得意であったが、好きなスポーツは野球であった。体が大きいからと、ソフトボールでも左打ちをさせられたが、それでも球はさくを越えた[7]。一方で相撲はというと経験が皆無であり、それこそ「お祭りで相撲大会がある時は、ズボンの上からまわしを締めていましたからね。まわしを締めて本格的に相撲を習ったというのは、純粋にこの世界に入ってからのことなんですよ」と本人が後年述懐するほどであった[5][8]。 傷つきやすいもの、傷ついたものに対して、人一倍神経がこまやかであり、小学校時代の同級生は「木になっているリンゴをもいでくれた。ボートに乗るといつもこぎ手を買って出た。体をぶつけ合うたぐいの遊びでは、絶対に本気を出さなかった。彼の周りにはいつも体の小さな子が寄り添っていた」と話していた[7]
入門?スピード出世

「北海道南部に怪童あり」との噂を聞きつけた多くの相撲部屋から熱心に勧誘され、中学へ入学した頃には引退したばかりの北葉山が自身の元を訪れたこともあったが[8]、女将が手編みの靴下を送ってくれたことで三保ヶ関部屋に入門。母は何度も入門を反対し、根負けして入門を認めた際には「強くなるまで帰ってくるな」と言った。後年本人は「現役時代は、あの言葉があったから、がんばれました。どんな時でも耐えることができたんです」と明かしており「うちの母ちゃんは、えらかったよ。13歳の息子に帰ってくるなって言えたんだよ。自分が子供を持つようになって分かるけど、とてもじゃないけど自分の息子に“帰ってくるな”なんて言えないよ。あの時、どんな思いでオレに、あの言葉を言ったのかと思うと、すごいなぁって思うよ。相当な覚悟がなければ言えませんよ」と感想を述べてもいる[9]。北海道を出発した際には「東京に行きたいなー」「飛行機に乗れてうれしいなー」などと思っていたが、飛行機の中から昭和新山洞爺湖を眺めた時、飛行機から降りたくなったという[10]。入門に際して北海道から上京して墨田区立両国中学校へ転校した。

1967年1月場所に中学1年13歳7ケ月で、9代三保ヶ関の長男であり、後に大関となる増位山 (後に10代三保ヶ関) とともに初土俵を踏む。四股名の「北の湖」は、故郷にある洞爺湖にちなんで9代三保ヶ関が命名した。湖を「うみ」と読ませたきっかけは水上勉の小説「湖の琴」 (うみのこと) からで、同作が東映で映画化された時の宣伝ポスターを師匠が目にし、「湖 (みずうみ) を『うみ』と読ませるのか」と驚き、そこから着想を得たという[11][12]。ちなみに北の湖は改名の多い角界においては、初土俵から引退まで一度も四股名を変えたことのない珍しい力士だった[13](結果的に一代年寄を授与されたため、親方時代も含め、50年近くにわたって「北の湖敏満」であった)。下位時代には四股名の読みが定着しておらず、人によっては「きたのこ」と呼ぶことがあった[14]。口の悪い記者たちは、仲間内でずっと蔑称のように「きたのこ」呼ばわりしていた[15]

中学生の頃から得意だった柔道を始め、野球水泳スキーで鍛えたスポーツ万能の体を生かしてスピード出世し、最年少昇進記録 (当時) を次々に樹立。三段目で一度だけ7戦全敗したことがあり、幕下時代に虫垂炎と右足首の亀裂骨折を経験した。特に後者の亀裂骨折は、その後2年間に渡って関取衆と稽古しなくなるほど重症であった[16][注釈 1]。しかしながら、中学卒業間際の1969年3月には15歳9ヶ月で幕下に昇進するなど「北の怪童」の異名を取り、十両以下の優勝 (下位優勝) がないまま、1971年5月場所に17歳11ヶ月で十両に昇進した。なお、中学卒業前は義務教育中ということもあって本格的な稽古は夏休みや日曜日しかできなかったといい、その状況の中で卒業間際に幕下まで昇進したことについて当時は北の湖本人も「まだ15歳なのに、なんでだろう?」と驚いていた[5]。中学時代の思い出として2年次の夏休みを本人は挙げており、当時約12人から13人くらい所属していた部屋の力士が巡業で出掛けていた際に留守番しながら毎朝4時に春日野部屋に出稽古へ通っていたという[8]

下位時代に一度だけ稽古が辛くて北海道に逃げ帰ろうと思っていた。だが東京へは右も左も分からず連れてこられたため、北海道へ帰るためにまずどうやって上野駅まで行けばよいかもわからず、結果的には相撲を辞めずに済んだ[17]
入幕?横綱へ昇進

1972年1月場所には新入幕 (18歳7ヶ月) を果たし、この時北の湖ははっきりと「史上最年少横綱を目指す」と宣言[18]


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