北の富士勝昭
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北の富士 勝昭

2019年
基礎情報
四股名竹沢 勝昭 → 竹美山 勝明 → 北の冨士 勝明 → 北の富士 勝明 → 北の富士 洋行 → 北の富士 勝昭 → 北の富士 勝晃 →北の富士 勝昭
本名竹澤 勝昭
愛称現代っ子横綱
イレブン横綱
プレイボーイ横綱
夜の帝王
北の富士親方
香車
槍烏賊(取的時代)
若手三羽烏
名門の二男坊
生年月日 (1942-03-28) 1942年3月28日(82歳)
出身北海道旭川市
身長185cm
体重135kg
BMI39.44
所属部屋出羽海部屋九重部屋
得意技突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ外掛け
成績
最高位第52代横綱
生涯戦歴786勝427敗69休(105場所)
幕内戦歴592勝294敗62休(64場所)
優勝幕内最高優勝10回
十両優勝1回
殊勲賞2回
敢闘賞1回
技能賞3回
データ
初土俵1957年1月場所
入幕1964年1月場所
引退1974年7月場所
引退後井筒部屋九重部屋師匠
他の活動NHK大相撲解説者
備考
金星1個(大鵬1個)
2019年7月3日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲
北の富士勝昭

北の富士 勝昭(きたのふじ かつあき、1942年3月28日 - )は、北海道旭川市(出生は網走郡美幌町)出身で九重部屋(入門時は出羽海部屋)に所属した元大相撲力士。第52代横綱。本名は竹澤 勝昭(たけざわ かつあき)。得意技は突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ外掛け
来歴
誕生?入門

7人兄弟姉妹の次男として、北海道網走郡美幌町で生まれる[1]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}6歳の時に留萌市へ転居して留萌市立留萌小学校へ入学すると、当時北海道で最強であった軟式野球チーム「萌友会」に入団し、主力投手として活躍する。留萌市立港南中学校に進学後も軟式野球の投手で4番を務めるなど、チームの最主力選手として活躍するが、旭川市立光陽中学校に転校した。[要出典]少年期に父が事業に失敗し、3回に渡って夜逃げを経験した[2]。父に関しては「酒好きでね…本当に酒好きだった!けど、長生きしたよ」と、2021年6月20日にNHK大相撲中継公式Twitterに家族と写った横綱時代の写真が公開された際に紹介していた[3]

1954年夏、故郷・留萌で大相撲の北海道巡業が行われ、父の経営する料理店に立ち寄った横綱・千代の山から直々に「どうだ、相撲をやって、東京見物をしてみないか」と声をかけられ[4]、これがきっかけで相撲に興味を持つようになった。その後も軟式野球を続けていたが、現役横綱から直接声をかけられたことが忘れられず、北海高等学校北海道旭川南高等学校北海道留萌高等学校の各野球部と、北海道増毛高等学校(当時の全国優勝校)・北海道天塩高等学校の各レスリング部(当時の全道準優勝校)から熱心に勧誘されていたが、全てを断って中学校卒業と同時に出羽海部屋へ入門した。数々の勧誘を全て断り大相撲に進んだ背景には他に、中学の野球部の活動で右肘を故障してしまい高校入学までに治る見込みがなかったという事情があった。2021年5月場所11日目のNHK大相撲中継の公式Twitterのオフショットでは「俺はノーコンで足も遅くて中学で野球を諦めて相撲にしたんだ」と苦笑していた様子が伝えられた[5]。一方で、中学時代は父の事業失敗のため金銭的に苦しく、「口減らし」のために千代の山の後援会世話人に預けられたという事情もあった[4]。靴を買う金すらなく、学生服に下駄履きという姿で上野駅に降りた竹澤は母からいざという時のため換金用に渡されたアズキ3袋を手にしていたが、すぐに転んで道に撒いてしまったという[4][注 1][6]
初土俵?十両で全勝

1957年1月場所、竹沢という四股名で出羽海部屋から初土俵を踏む。入門のために上京した際に青函連絡船船酔いしてしまい、これが原因で体重が激減してしまったため、場所前の新弟子検査では体重不足として不合格だったが、前場所から施行された「自費養成力士制度」によって前相撲に進むことができた[7]。3月場所は計量直前に大量の水を飲んで体重基準を通過した。

当初の取り口は前に進むだけの一本鎗で、「香車」「ヤリイカ」とあだ名された[8]。あまりにも痩せていたことから出世は遅れ、当時制定されていた「30場所で幕下へ昇進できなければ廃業[注 2]の規約をもう少しで適用され、廃業を余儀なくされるところだったが、当人もそれを知って奮起したという。入門当初は先輩力士や親方ではなく、部屋付きの式守鬼一郎付け人も務めていた。

1960年には三段目まで昇進していたが、同年の夏巡業で北海道に滞在中、先輩力士からリンチに近い猛稽古の制裁を受け[注 3]、急性虫垂炎腹膜炎を併発した。それでも巡業に同行したものの、実家のある旭川市に到着したところで体調が限界に達したため入院、50日間に及ぶ入院生活を送った[9]。このため、後援者から「験直しのために四股名を変えたらどうか」との勧めを受け、同年9月場所から「北の冨士」と改名している(9月場所はまだ入院中で全休していて、実際には次の11月場所からこの四股名で土俵に上がった)。同年末に出羽海親方(元常ノ花)が亡くなると、跡を継いだ武蔵川親方(元出羽ノ花)の指導で北の冨士は素質を開花させていく[10]

1963年3月場所で、ようやく十両に昇進した。そして、1963年11月場所では十両で史上3人目の15戦全勝優勝を達成した[注 4]
入幕?大関昇進

1964年1月場所で新入幕を果たすと、この場所では13勝2敗という新入幕力士最多勝の新記録[注 5]樹立という好成績で敢闘賞を受賞した。この場所、北の冨士と同じように好成績を挙げた清國勝雄若見山幸平とともに「若手三羽烏」と呼ばれた。だが本人が後に語ったところによると、この場所で清國が14勝1敗の好成績を残したため全く注目されなかったという[11]。同年3月場所に小結、7月場所には関脇に昇進し、その取り口は「スピード相撲」と称された。のちに、本人は、腰高を治すか、それともスピードをつけるか、どちらかでないと駄目だと言われ、スピードを選んだ、と述べている。

1965年5月、タニマチの女性から海外土産として拳銃をプレゼントされ、怖くなって師匠に預けていたことが発覚。書類送検されたが、日本相撲協会からの処分はなかった(角界拳銃密輸事件[12][13]

1966年7月場所後に大関に昇進するが、昇進直前3場所の成績は8勝7敗・10勝5敗・10勝5敗の合計28勝17敗で、15日制が定着した1949年5月場所以後では北葉山と並ぶ最低の数字である。北の冨士の大関昇進場所当時、豊山(初代)の一人大関という番付の事情があったとはいえ、昇進基準が現在より甘かった当時でも意外と言われた大関昇進だった。それ故か北の冨士自身、『まさか自分が大関に昇進するなどとは思っていなかった』ために昇進伝達式の朝は熟睡しており、部屋の床山から叩き起こされて自身の大関昇進の決定とその伝達式があることを知らされた。北の冨士本人も出羽海部屋内部も予想だにしない大関昇進であったために協会からの昇進伝達使者を迎える際に必要な紋付足袋も全く用意していなかった。そのため、紋付は当時兄弟子であった横綱佐田の山から、足袋は足の大きさが同じだった柏戸から借りて、出羽海部屋での昇進伝達式にようやく間に合わせた。更に言えば本来立ち会うべき師匠の8代出羽海夫妻も北の冨士の昇進を全く考えておらず、外出して部屋を留守にして不在だったため、佐田の山が師匠代理として立会人を務めるという異例の伝達式であった[14]
幕内初優勝・横綱昇進へ

大関時代に九重が出羽海部屋からの分家独立を申し出て破門された際には、九重に付いていくか出羽海に留まるか大いに悩んだという。そして出した決断は、九重に付いて行き、所属も九重部屋に変えることだった[注 6]。それまでは佐田の山がいたために2番目の気楽な立場に甘んじていたが、独立後は部屋頭となった。独立した当初の九重部屋は経営が決して楽ではなく、既に大関に昇進していた北の富士が巡業で九重と布団を譲り合う時期もあったという[6]。一方で、出羽錦や佐田の山などの怖い兄弟子がいなくなったことから遊び放題になり、後述の初優勝を決めてからはさらに遊びが激しくなったと、2016年の自著で語っている[15]。その独立後最初の場所となる1967年3月場所では、佐田の山を倒して14勝1敗で悲願の幕内初優勝を決め、一緒に移籍した松前山武士も十両優勝を達成した。

だが初の綱獲りが期待された1967年5月場所は、過度の緊張と稽古不足から5勝10敗、次の1967年7月場所も7勝8敗と、大関の地位で2場所連続で負け越しを喫してしまう[注 7]。初の大関角番となった1967年9月場所は、四股名の「冨」に点を付けて「富」と改めて臨み、10勝5敗で角番を脱した。しかし、その後もしばらくは10勝前後の成績に留まり、その間に清國・玉乃島らの綱獲り挑戦(失敗)も発生した。

1969年夏巡業の頃から、大の稽古嫌いで知られていた北の富士は人が変わったように稽古に打ち込んだ。その背景には、入門するまで1ヶ月間自宅に引き取って面倒を見てくれた人物である村上精一郎が脳軟化症で余命幾許もない(同年12月14日に死去)という状況があり、村上からは「お前が綱を張ることを信じている」と激励された[16]。同年9月場所は玉乃島と最後まで優勝を争い12勝3敗、11月場所は13勝2敗で16場所ぶり2回目の幕内優勝を果たす。場所後に協会は北の富士の横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが、前年玉乃島の横綱昇進が否決されたときと比べて成績で劣ること、この場所14日目の麒麟児戦での黒星が悪印象であったこと等から、もう一場所様子を見るべきとして8人の委員全員の反対によって否決された[17]。一人横綱であった大鵬の衰えが明らかであった事情から内規を満たした北の富士を一応諮問した形であったが、事前の報道でも昇進見送りの公算が強く[18]、北の富士自身も否決が伝えられると「九分通りあきらめていたのでがっかりはしないですよ」[17]と答えた。

それでも11月場所後の九州地方巡業で、ほとんどの力士が悪天候と寒波に見舞われて稽古ができなかった中、北の富士はただ一人稽古を皆勤した。その巡業に帯同した大鵬が「あれが本当に北の富士だろうかと目をうたがうようなときがあった。ワシも大関から横綱のころにかけては人後に落ちない稽古をした自負はあるが、いまの北の富士も稽古にはすごく熱が入っていた。今度の巡業で北の富士の稽古は本物だと感じさせられる場面はかなりあった」と評するほどの熱心さであった[16]1970年1月場所は大鵬の休場で横綱不在となり「四人の大関のなかでだれが優勝してもおかしくない」[19]と予想された場所を再び13勝2敗、優勝決定戦では本割で敗れた玉乃島を外掛けで破り連覇を達成した。


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