包拯
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包拯像 包拯の墓入口(合肥市) 包拯の墓 包拯の祠の彫像 包拯に扮した京劇役者

包拯(ほうじょう、ほうしょう、999年 - 1062年)は、中国北宋の政治家。廬州合肥安徽省)の出身。は希仁、は孝粛である。包公、包待制、包青天とも呼ばれ、中華圏では子供から老人まで、あらゆる世代に知られた人物である。
目次

1 生

1.1 人物

1.2 包拯の主な事跡


2 包公故事と清官文化

3 広く伝わった「包公故事」

4 水滸伝との関連

5 テレビドラマ『包青天』

5.1 登場人物


6 関連書籍

7 注・出典

8 関連項目

9 外部リンク


人物

包拯の生涯は、北宋の3分の1以上の歴史を占める北宋の真宗仁宗の2代67年に重なる。在位期間は、真宗が26年(997年 - 1022年)、仁宗が42年(1022年 - 1063年)である。

真宗の在位期は若き頃で、故郷の合肥で学問に励んでいた。包拯が活動した時期は大半が仁宗の治世下である。仁宗は乾興元年(1022年)に13歳で即位したが、劉太后が政治の実権を握っていた。明道2年(1033年)に劉太后が逝去した後、仁宗は親政を行い、嘉祐8年(1063年)に崩御する。

包拯は仁宗天聖5年(1027年)に、29歳で科挙試験の進士に合格、建昌知県(県知事)に任命される。しかし、両親が高齢であるために故郷を離れようとせず、官を辞職する。両親の世話をし、その死後は喪に服したことなどで、その孝行ぶりは故郷に知れわたった。景祐3年(1036年)、包拯は38歳の時に再び仕官し、天長知県となった。その後順調に昇進し、嘉佑6年(1061年)に給事中・礼部郎中・三司使・枢密副使にまで上り詰めた。嘉祐7年に病没、礼部尚書を追贈されている。
包拯の主な事跡

包拯は仁宗の時代に仕え、科挙試験で進士に及第し、大理評事、建昌知県、枢密副使にまで昇り詰めた。その間約26年に数多くの職を経ている。

包拯については、宋代に書かれた「仁宗実録・包拯附伝」と元代に書かれた『宋史』包拯伝[1]の2つの歴史書があるが、両者とも記載は比較的簡単なものである。このうち正史である『宋史』包拯伝によれば、包拯が右司郎中として開封府尹代理を務めていた頃、極めて厳格で、権力があった宮中の貴族や宦官ですら恐れずに賄賂を摘発したので、非常に恐れられたという。民衆からは「包拯が笑う時は黄河が澄む時だ(めったにない)」とか、「関節(賄賂)到らず、閻魔包公有り」(閻魔の包さんがいる限り賄賂は通用しない)など、子供でも包拯のことを知っており、大変人気があったという。また、政府高官になっても庶民時代と同じ生活をしており、群れを作らず、賄賂を断じて取らなかったという。これらの話は歴史的事実として認められている。

1973年に合肥で包拯とその親族の6個の墳墓が出土した。その墓誌銘によってある程度『宋史』等の記述を補うことが期待されたが、不完全で不明確な部分もあった[2]
包公故事と清官文化

生前から庶民に人気があった包拯であるが、没後その名声はさらに高まり、特に南宋以来、包公故事(伝説)は広く語り伝えられた。結果、庶民に崇拝される特異な人物像が創り上げられ、後世の人々に伝えられて行った。包拯は清官(清廉潔白な官吏)の典型とされ社会に清官文化をもたらしたが、その故事中には正史『宋史』等にない逸話が多く歴史的事実かどうかという点で疑問視されている。

『宋史』以外に見られる宋代の記事は下記が知られている[3]

沈括(しん かつ、1030 - 1094年)撰『夢溪筆談』卷二十二 謬誤 譎詐附「包孝肅尹京」の条[4]。この話は『棠陰比事』91の出典。

徐度[5]『卻掃編[6]』巻中 「包孝肅公之尹京也」の条。[7]

彭乘[8]『墨客揮犀』[9]巻一 冒頭[10]

司馬光『?水記聞』巻十 「嘉祐七年五月辛未」の条[11]。包拯薨去の記事と『宋史』にある評判記。

桂万栄[12] 撰『棠陰比事』(刊行1211年?、元版系)の46「包牛割」、91「孝肅杖吏」は包拯の逸話であるが、前者は多くの故事・伝説の中で唯一『宋史』包拯伝の最初にある逸話であり、この事案は事実とされている。後者は沈括『夢溪筆談』からの収録。

広く伝わった「包公故事」

いかなる社会においても多くの場合、活躍した人物が著名であっても、死後にはその存在が人々の記憶から薄れてゆくのが自然である。ごく一部の人物のみ、後世の人々の関心を引き付け、さらに名前が広く知れわたることがある。包拯の場合、在世当時でも庶民から人気(信任)を得ていたが、最後の官位は枢密副使どまりであった。没後しばらくして、中国の歴史上で最も有名な清廉潔白な官吏として知られるようになり多くの伝説が出来上がった。

没後190年ほど後の南宋末期、元好問撰『続夷堅志』巻一 4 「包女得嫁」の条[13]では、包拯が生前正直であったので没後冥界の役所を司っているという話になっている。そして、宋元代には講談の種本である「話本」、古典地方劇の「戯文」や「雑劇」「鼓子詞(こしし)」、明清代には語り物の一種である「詞話」や「白話小説」「公案小説(中国語版)」などにより、特色ある文化現象として形成される。


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