勢子(せこ、せご)とは、狩猟を行う時に、山野の野生動物を追い出したり、射手(待子:まちこ、立間:たつま)のいる方向に追い込んだりする役割の人を指す[1]。かりこ(狩子、狩り子)、列卒ともいう[1]。多人数で行う巻狩りなどの狩猟法で、勢子は活躍した。領主などの権力者が行うような大規模な巻狩では参加する勢子の人数が数百人を超えることもしばしあった[2]。 古くは、『日本書紀』や『古事記』に記載された天皇の狩りにも獣を追い立てる役目の者が用いられていたと考えられている[注釈 1][4]。 1192年に鎌倉幕府を開いた源頼朝が翌1193年4月2日から23日まで那須野ヶ原(那須塩原市)周辺で行った那須巻狩は10万人もの勢子が集められたと伝わる[5]。頼朝は5月にも同様に大規模な富士の巻狩りを行ったが、その際に勢子が滞在した土地に勢子に由来する地名がついた[6]。 戦国時代、国盗りの北条早雲は、大森藤頼が所領する小田原城を奪取した際、鹿狩りと騙して、勢子に化けさせた多数の兵を小田原城付近の山に送り込み奇襲する作戦を用いたとの言い伝えがある[7]。 江戸時代の1716年(正徳6年)など数回、将軍徳川吉宗などが小金原で行った鹿狩(ししがり)・小金原御鹿狩は、割り当てで数万の農民を集め、勢子(勢子人足、百姓勢子)をさせたと伝わる[8][9]。この鹿狩りは害獣駆除の意味合いもあるものの[10]、駆り出された農民にとっては「苦行」だったという者もいる[8]。 20世紀までは行われたマタギの集団での狩りの手法にも勢子の役目があり、指揮者(シカリなどという)の指示のもと射手のところへ獲物を導いた[2][11][注釈 2]。1970年後半、秋田県のあるマタギは勢子役が「ホーホッ、ホーリャ」と掛け声を出して、カモシカを追った[13]。秋田県の別のマタギは勢子役が「ソーレア!ソーレア!」と叫びながら、クマを追った[14]。「ノボリマキ」という、勢子が下のほうから射手の待つ尾根に熊を追い上げる狩猟法が行われ[14]、沢沿いに追い上げる者を「沢セコ」、斜面の中程から追い上げる者を「中セコ」、尾根沿いに追い上げる者を「片セコ」と呼んでいた[14]。 元の皇帝の鷹狩やインド・ムガール朝のアクバル帝の狩猟、18世紀のオーストリア宮廷の狩りでも勢子の役割の者がいた[15][16][17]。マルコ・ポーロの『東方見聞録』によると、フビライ・ハーンの鷹狩では大勢の勢子が用いられたと伝わる。 イギリスでは17世紀にオオカミは絶滅しているが、15世紀頃にはオオカミがおり、領主や貴族などのハンターが農民を勢子役にしてオオカミを追い出させ、それを猟犬に追わせるスポーツハンティング(オオカミ狩り)が行われていたことが記録されている[18]。また勢子や嗅覚ハウンドと呼ばれる犬種群を動員して鹿を狩る鹿撃ち
歴史
雲谷等顔の『花見鷹狩図屏風』(桃山時代、16世紀):左の鷹狩りの絵に、多数の勢子が描かれている。
世界の勢子16世紀頃のドイツの鹿猟。多数の勢子と猟犬がハンターの待つ川へと鹿を追い込む様子。(絵:ルーカス・クラナッハの『Hunting near Hartenfels Castle』、1540年)
朝鮮半島では、勢子を用いた虎狩が、豊臣秀吉の朝鮮出兵において行われた。1595年(文禄4年)3月10日に島津義弘の手勢が犠牲者を出しながら2頭のトラを仕留め、秀吉に献上している[19]。