勢多郡(せたぐん)は、群馬県(上野国)にあった郡。
郡域
勢多郡(第1次)詳細は「南勢多郡#郡域」および「北勢多郡#郡域」を参照
赤城山を中心として存在した。概ね上記の区域を合わせたものだが、行政区画として画定されたものではない。 1896年(明治29年)に発足した当時の郡域は、現在の行政区画では以下の区域に相当する。 明治以前までは赤城山の山麓全域にまたがる郡であったが、その後の郡の再編によって群馬郡・利根郡との事実上の境界線変更が行われ、郡域が赤城山以南、利根川以東に確定した。 郡名の初見は『続日本紀』の天平勝宝元年閏5月20日。勢多郡少領の上毛野足人が記されている。このため上毛野氏の勢力範囲にあったと思われる。建郡年代や古代の郡域は共に不明であるが、中世には赤城山を中心にその山麓に広がっていた。 延喜式神名帳には名神大社である赤城神社(論社3社)が記載される。また赤城神社は上野国二宮でもある。 和名類聚抄に勢多郡の郷として深田、田邑、芳賀、桂萱、真壁、深渠、深沢、時沢、藤沢の9ヶ郷が挙げられている。 荘園については、大室庄、拝志庄、山上保、大胡郷などが郡内に存在していた。山上、大胡からはのちに秀郷流藤原氏の山上氏、大胡氏が出ている。 戦国時代、上杉憲政が上野での勢力を喪失したのち、勢多郡は武田氏、長尾上杉氏、後北条氏の三勢力の接する場となり、領主もめまぐるしく変わる争奪地となった。その後武田・上杉の勢力後退によって、天正年間後期にはほぼ全郡が後北条氏の勢力下に入った。 後北条氏の後、徳川家康配下の諸大名に勢多郡は領有された。南西部に前橋藩、南部に大胡藩、北部に沼田藩、そのほか天領や旗本領が混在していた。1616年(元和2年)には領主転出に伴い大胡藩が前橋藩領となった。
勢多郡(第2次)
前橋市(以下の3地域を除く)
1892年(明治25年)に市制を施行し、前橋市となった区域(本庁管内のうち、敷島町と緑ヶ丘町を除いた地域)
利根西地区[利根川以西の4地域(清里、総社、元総社、東)]
1960年(昭和35年)に佐波郡上陽村から編入した大字4つ(現在の山王町、西善町、中内町、東善町、広瀬町三丁目)
渋川市(北橘地区、赤城地区)
桐生市(新里地区、黒保根地区)
みどり市(東地区、大間々町上神梅、大間々町下神梅、大間々町塩沢)
歴史
勢多郡(第1次)所属町村の変遷は南勢多郡#郡発足までの沿革、北勢多郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での、当郡域2町178村の支配は以下の通り。幕府領は関東在方掛の岩鼻陣屋が管轄。他にも寺社領が各村に散在。(2町178村)
後の南勢多郡域(2町163村) - 幕府領、旗本領、上野前橋藩、山城淀藩、出羽松山藩、陸奥泉藩、下野佐野藩、武蔵岩槻藩
後の北勢多郡域(15村) - 幕府領、旗本領、上野前橋藩
慶応4年6月17日(1868年8月5日) - 新政府が岩鼻陣屋に岩鼻県を設置。幕府領・旗本領を管轄。