勢力圏
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モンロー主義によりラテンアメリカ諸国を勢力圏におさめたアメリカ合衆国。1912年の新聞に掲載された風刺漫画

国際関係論における勢力圏(せいりょくけん)または勢力範囲 (英語: sphere of influence, SOI) は、ある国家もしくは組織が支配する領土外において、文化的、経済的、軍事的、政治的な独占権をもつ地域を指す。
概要

国際政治における勢力圏とは、一国の政治・経済・軍事面における排他的影響力の及ぶ他国領土の一部または全部を言い、国際政治史のうえで厳密な意味で用いられるものとしてはアフリカにおける欧米列強の分割に先立ち、将来の先占を予想して領土権を留保した地域を指すものと、中国に対する列強の利権獲得競争が本格化する中で列強が優先的あるいは排他的な権利を所有するに至った特定地域を指すものである[1]

影響力を持つ側と持たれる側ができる背景には、条約や協定など両者の利害に絡む正式な外交関係がある場合もある。ただしそうでなくともソフト・パワーなどによって非公式的な影響関係が生まれる場合がある。逆に正式な同盟関係においても、常に一方が他方を勢力圏に置く関係となるとは限らない。歴史上、上位に立つ勢力が勢力圏下での独占を強めるほど、紛争の火種が増え、激化する元となってきた。

勢力圏の上下関係がさらに進展すると、勢力圏に収められた国家は上位国の傀儡国家となり、さらには事実上の植民地となる場合がある。勢力圏の概念は、超大国列強ミドル・パワーといった国際関係上の概念の説明にも用いられる。

時には、1つの国が2つの国の勢力圏に入る場合もある。植民地時代のイギリスとロシアに挟まれたイラン(ガージャール朝)や、イギリスとフランスに挟まれたタイ(ラタナコーシン朝)が好例で、これらの国は2つの大国の間で緩衝国の役割を果たした。また第二次世界大戦後に4つの軍政区に分割され、後に東西に分裂したドイツも挙げられる。西ドイツはアメリカを中心とする北大西洋条約機構の、東ドイツはソビエト連邦を中心とするワルシャワ条約機構の一員となった。

なお、勢力圏という言葉は国際政治以外で用いられる場合もある。例えばショッピングセンターのような小売店が有している地理的な独占範囲を勢力範囲と言い表すことがある。
植民地主義
中国

歴史上で勢力圏の存在を如実に見て取れる例が、19世紀後半から20世紀初頭までの中国である。この時代、イギリスフランスドイツロシア(後には日本)が中国の大部分を勢力圏とし、事実上の支配下に置いていた。これは、19世紀以降に列強が中国(清)に対して軍事力を背景に不平等条約を押し付けたり、極端に長期にわたる租借契約を結ばせたりした結果である[2]1905年の中国におけるおおまかな勢力圏。日露戦争で勝利した日本が、東北部(満州)におけるロシアの勢力圏を奪取している。

1897年12月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は中国における列強の勢力圏争いに加わり、植民地を獲得する意向を示した。 ドイツは膠州湾租借地として得る(膠州湾租借地)とともに、山東省の鉱山採掘権や鉄道の所有権などを獲得し、この地域を勢力圏におさめた[3]。これに対しロシアは従来外モンゴル及び新疆で有していた貿易時の免税特権に加え[4]遼寧省吉林省黒竜江省でドイツの例に似た経済特権を獲得した。同様にフランスが雲南省広西省および広東省を、日本が福建省を、イギリスが長江流域およびチベットを勢力圏とした[5]イタリア浙江省を得ようとしたが、これは清政府に阻止された[6]

なおこうした勢力圏は、清朝との不割譲協定(特定の領域について、第三国に割譲しないよう約束させる取り決め、交換公文などで行われた)や鉄道敷設権を基礎として実質的に機能したものであって、完全な支配権を獲得する物ではなかった[7]

1902年には、イギリスの保守党議員ウィンストン・チャーチル(後の首相)が「我々は中国人を手中に収め、統制せねばならないであろう。」「私は完全な中国分割を確信している」「アーリア人種は勝利する運命にある」などと演説している[8]

ロシアは勢力圏とした地域を軍事占領し、法と学校制度を敷き、鉱業・林業の特権を独占し、植民を行ったうえに、清の了解を得ぬままに[9]いくつかの都市に行政機構を設立したりした[10]

分割に参加した列強およびアメリカは、公式には清の領土とされている地域でも構わず法廷や警察を置き、自前の商法を敷き、道路や線路を整備し、軍艦を配備したりした。ただし、清の各地方政府は列強の蚕食に根気強く抵抗し続けた[11]。こうした構造は、第二次世界大戦後に終焉を迎えた。

1899年9月6日、アメリカ国務長官ジョン・ヘイが列強諸国(フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、日本、ロシア)に対し、中国の領土と政治の統一性を支持したうえで条約港の自由な利用を妨げないことを宣言するよう要求した。アメリカは他の列強が中国に広大な勢力圏を確保したことに危機感を覚え、巨大な中国市場に参入する手立てを失うことを恐れていた[12]。これは1900年以降の各条約で「門戸開放政策」、と呼ばれるようになるが、それでも列強各国の利権拡大を狙う動きは衰えなかった[13]。アメリカもまた、後の1917年に日本の勢力圏を認める石井・ランシング協定を結ぶなど自己矛盾を抱えていた[14]

1910年、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ(後にはロシアと日本)は、門戸開放政策を無視して中国の抱える借金を一括して管理する銀行組合を結成した。これにより列強は互いに傷つけあうことなく利益を吸うことが出来るようになった。この団体は中国の税収の大部分を支配し、袁世凱中華民国政府には一部だけしか流されなかった[15][16]
ペルシアロシアとイギリスのペルシアに対する影響

1907年に英露協商を結んだイギリスとロシアは、イランを両国の勢力圏として事実上分割した。ロシアが北イランのほとんどを、イギリスが南東部を勢力圏とし、互いに承認しあう形であった[17][18]
タイ

タイについては、1904年にイギリスとフランスが協定を結び、メナム川(チャオプラヤー川)以東をフランスが、川とタイランド湾以西をイギリスが勢力圏とし、互いに承認した。ただし英仏どちらも 、シャムの領土を完全に併合してしまう可能性は否定した[19]
アメリカとモンロー主義

アメリカ初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンは、北米内でアメリカの勢力圏を広げていく構想をたてた[20]。彼は『ザ・フェデラリスト』の中で、アメリカ合衆国が世界的な強国へと成長し、アメリカ大陸からヨーロッパ諸国を追い出して、大陸諸国を覆う優位性を獲得するという野心的な未来像を打ち出している。当時のアメリカ大陸は、まだほとんどがヨーロッパ諸国の植民地であった[21]

ハミルトンの構想は第5代大統領ジェームズ・モンローによってアメリカの国策となった。彼は、新大陸をアメリカの勢力圏としてヨーロッパの影響を排除する、いわゆるモンロー主義を打ち出した。アメリカが名実ともに大国の地位に上り詰めてからは、このアメリカのスタンスに挑戦しようとする国はほとんど現れなかった[22]。数少ない例外としては、ソビエト連邦が新大陸情勢への介入を試みたキューバ危機が挙げられる。


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