logo勝龍寺城
(京都府)
模擬櫓と虎口跡
別名小竜寺城
城郭構造梯郭式平城
天守構造御主(1571年頃築)
築城主細川頼春か
築城年室町時代か延元4年/暦応2年(1339年)
主な改修者細川藤孝
主な城主細川氏、永井氏他
廃城年慶安2年(1649年)
遺構土塁、空堀、石垣、土橋
指定文化財未指定
再建造物模擬石垣・櫓
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度55分5.21秒 東経135度42分2.49秒 / 北緯34.9181139度 東経135.7006917度 / 34.9181139; 135.7006917
勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)は、京都府長岡京市勝竜寺にあった南北朝時代から江戸時代初期にかけての日本の城。城名は付近の同名古刹(勝龍寺)に由来する。安土城に先行する「瓦・石垣・天守」を備えた近世城郭の原点として評価される[1]。 勝龍寺城は京都盆地の西南部、小畑川と犬川の合流地点に位置し、西国街道と久我畷が交差する交通上の要衝で、京都では山崎城につぐ防衛拠点であった。また勝龍寺城は古墳を流用して築いたのではないかと言われているが、「主郭や沼田丸ではそれらしき痕跡は認められない」とされている[2]。 延元4年/暦応2年(1339年)、京都をうかがう南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築いた城と言われてきたが、「歴史的根拠はなく、むしろ後に城主となる細川藤孝(幽斎)の正当性を強調するための創作である可能が高い(幽斎は頼春次男頼有の末裔)」としている[3]。この城の初見は『東寺百合文章ひ』の康正3年(1457年)1月19日に「来る二月八幡御番人夫五人、晦日勝竜寺へ早々越さるべく候」とあるので山城守護畠山義就が郡代役所として築城したと推定されている。更に応仁の乱の応仁2年(1470年)に、「四月十四日、勝竜寺搦手北の口に於て合戦仕り、安富又次郎相共に馬場?びに古市を焼落とす」(『野田泰忠軍忠状』)と記しているので、この頃には軍事施設して使用されていた。「郡代の政庁から城郭に発展した典型的な例」としている[4]。その後有力な史料には勝龍寺城が現れてこないが、永禄9年(1566年)7月17日に、「小竜寺城、淀城扱いに依て取り退くと云々。小竜寺は岩成、淀は日向の内衆金子これを請け取ると云々」(『永禄九年記』)とあるので、戦国時代末期には淀古城と共に松永久秀、三好三人衆の属城となっていた。「東大寺大仏殿の戦い#開戦までの経緯」も参照 勝龍寺城の戦い
概要
沿革勝竜寺城公園の管理棟
勝龍寺城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:永禄11年(1568年)9月26日-29日
場所:勝龍寺城
結果:織田信長軍の勝利
交戦勢力
織田信長軍三好三人衆軍
指導者・指揮官
織田信長
柴田勝家
蜂屋頼隆
森可成
坂井政尚岩成友通
戦力
50,000兵不明
損害
不明50兵以上
勝龍寺城落城