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かつ しんたろう
勝 新太郎
『キネマ旬報』1964年2月決算特別号より
本名奥村 利夫(おくむら としお)
別名義二代目杵屋勝丸
生年月日 (1931-11-29) 1931年11月29日
没年月日 (1997-06-21) 1997年6月21日(65歳没)
出生地 日本・東京市深川区(現・東京都江東区)
死没地 日本・千葉県柏市(国立がんセンター東病院)[1]
国籍 日本
身長170 cm
職業俳優・歌手・脚本家・映画監督
映画プロデューサー・三味線師範
ジャンル映画・テレビドラマ
活動期間1954年 - 1997年
配偶者中村玉緒
著名な家族杵屋勝東治(父)
若山富三郎(兄)
鴈龍(長男)
奥村真粧美
受賞
日本アカデミー賞
会長特別賞
1998年
その他の賞
キネマ旬報ベスト・テン
主演男優賞
1963年『座頭市シリーズ』・『悪名シリーズ』毎日映画コンクール
男優演技賞
1971年『顔役』他
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勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年〈昭和6年〉11月29日 - 1997年〈平成9年〉6月21日)は、日本の俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。
本名:奥村 利夫(おくむら としお)。身長170cm[2]。血液型O型[3]。市川雷蔵とともに大映(現・角川映画)の「二枚看板」として活躍。その後は「勝プロダクション」を設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わった。
勝新(かつしん)と愛称で呼ばれ、豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、数多くの不祥事を起こしながらも多くのファンから愛された[4][5]。2014年に映画関係者や文化人を対象にしたキネマ旬報のアンケートでは、好きな日本映画男優の第4位に選ばれている[4]。 長唄三味線方の杵屋勝東治と妻・八重子の次男として、母方の実家のある千葉県柏市で生まれる。生家は東京市深川区(現在の東京都江東区)。若山富三郎は二歳上の兄。宇津井健は幼馴染。旧制法政中学校(現在の法政大学中学高等学校)中退。十代のころは長唄と三味線の師匠として、深川の芸者に稽古をつける。長唄の名取は二代目 杵屋勝丸。1954年のアメリカ巡業中に、撮影所で紹介されたジェームズ・ディーンに感化されて映画俳優になることを決意する。 23歳の時に大映京都撮影所と契約、1954年の『花の白虎隊』でデビュー。大映社長の永田雅一は勝を可愛がり、白塗りの二枚目として市川雷蔵に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたが、思うように人気が出なかった[6]。同年代の雷蔵・山本富士子・若尾文子が早々とスターとして活躍していくのとは対照的に、憧れの長谷川一夫そっくりのメイクも板につかず、主演作のあまりの不人気ぶりに映画館の館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」、「勝の主演ではヒットしない」との苦情が絶えず寄せられるほどだったが[6]、1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じたことにより、それまでの評価を一新させることとなる[7]。 1961年、二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映に在籍していた女優の中村玉緒と婚約。玉緒とは『不知火検校』や、一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『悪名』(田中徳三監督、今東光原作、依田義賢脚本、田宮二郎共演)などで共演している[注釈 1]。
来歴
生い立ち
大映時代1956年