勝尾寺
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勝尾寺
本堂
所在地大阪府箕面市粟生間谷2914-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度51分57秒 東経135度29分28秒 / 北緯34.86583度 東経135.49111度 / 34.86583; 135.49111座標: 北緯34度51分57秒 東経135度29分28秒 / 北緯34.86583度 東経135.49111度 / 34.86583; 135.49111
山号応頂山
宗派高野山真言宗
本尊十一面千手観世音菩薩
創建年神亀4年(727年
開山開成
開基善仲、善算
中興年文治4年(1188年
中興源頼朝
正式名応頂山 勝尾寺
別称弥勒寺
札所等西国三十三所第23番
法然上人二十五霊場第6番(二階堂)
摂津国八十八箇所第54番
摂津国三十三箇所第22番
神仏霊場巡拝の道第65番(大阪第24番)
文化財木造薬師如来及両脇侍像、法華経 巻第四、勝尾寺旧境内?示八天石蔵(重要文化財
勝尾寺旧境内?示八天石蔵及び町石(国の史跡
公式サイト ⇒西国二十三番札所 勝尾寺
法人番号1120905003357
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勝尾寺(かつおうじ)は、大阪府箕面市にある高野山真言宗寺院山号は応頂山。本尊十一面千手観世音菩薩西国三十三所第23番札所。開山開成(かいじょう)[注 1]、寺号は「かつおじ」「かちおじ」などとも読まれる[注 2]。「勝ちダルマ」が有名である。

本尊真言:おん ばざら たらま きりく 

ご詠歌:重くとも罪には法(のり)の勝尾寺(かちおでら) ほとけを頼む身こそやすけれ
概要

伝承によれば、勝尾寺の草創経緯は次のとおりである。神亀4年(727年)、 藤原致房の子の善仲、善算の兄弟はこの地に草庵を築き、仏道修行に励んでいた。それから約40年後の天平神護元年(765年)、光仁天皇皇子桓武天皇の異母兄)である開成が2人に師事して仏門に入った。宝亀8年(777年)、開成は念願であった大般若経600巻の書写を終え、勝尾寺の前身である弥勒寺を創建した。そして、数年後の宝亀11年(780年)、妙観が本尊の十一面千手観世音菩薩立像を制作したと伝えられている。開成の僧としての事績については正史に記載がなく不明な点も多いが、北摂地域の山間部には当寺以外にも高槻市神峯山寺など、開成の開基または中興とされる寺院が点在している。
歴史
開創

勝尾寺は平安時代以降、山岳信仰の拠点として栄え、天皇など貴人の参詣も多かった。元慶4年(880年)、当時の住職行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行い、「勝王寺」の寺号を賜るが、「王に勝つ」という意味の寺号は畏れ多いとして勝尾寺に差し控えたという。『日本三代実録』は、元慶4年の清和天皇死去についての記事で、清和天皇が「勝尾山」に参詣したことを述べており、これが勝尾寺の文献上の初見である。
中世?近世

元暦元年(1184年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の一ノ谷の戦いの煽りで全山焼失する。文治4年(1188年)、源頼朝の命により、熊谷直実梶原景時によって再建された。

承元2年(1208年)から承元4年(1210年)にかけて讃岐国への流罪から戻った法然が当寺に滞在している。

応永30年(1423年)、室町幕府第4代将軍足利義持によって将軍家の祈願寺に指定された。

慶長8年(1603年)には豊臣秀頼によって山門が再建され、また本堂再建のための浄財も寄進される。

江戸時代延宝2年(1674年)、高野山の釈迦文院の末寺となり、宗派を天台宗から真言宗に改めている。
現代

近年では「勝ちダルマ」の寺として有名である。勝ちだるまが置かれている場所がある。小さいだるまはどこにでも置ける。
境内山門観音菩薩と多宝塔多宝塔ライトアップ


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