モンゴルの歴史
中国モンゴル高原
夏??葷粥山戎
周戎狄
秦月氏匈奴東胡
漢
丁零
丁零(ていれい、?音:D?ngling)は、紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。丁令[1],丁霊[2],勅勒(ちょくろく)とも表記される。4世紀では勅勒[3]、5世紀?6世紀では高車[4]、6世紀?8世紀では鉄勒[5](てつろく)とも呼ばれた。 原名は“車”を指すモンゴル語telegem(テレゲン),terege(テレゲ)に由来すると考えられ、丁零,鉄勒はその音訳で、高車はその意訳であると考えられる。あるいは、突厥碑文に見えるTolos(テレス)に比定する説、あるいは突厥と同名でTurk(テュルク)またはその複数形Turklar(テュルクレル)に比定する説、あるいは突厥の手足にされたことからTirak(ティレク:扶助者)に比定する説があったが、P.A.Boodbergは『Three Notes on the T'u-chueh Turks』[6](1951年)において、古アルタイ語で“車”を指すTerege,telegenと関連するTerek,Telekに比定し、後に“高車”と呼ばれることに信憑性を持たせた。[7] 『山海経』海内経に「北海之?,有山,名曰幽都之山,K水出焉。其上有玄鳥、玄蛇、玄豹、玄虎、玄狐蓬尾。有大玄之山。有玄丘之民。有大幽之國。有赤脛之民。有釘靈之國,其民從膝以下有毛,馬蹄善走。」とあるのが、丁零の初出である[8]。この記述はのちの『魏略』西戎伝の馬脛国の記事(後述)に類似している。
目次
1 名称
2 歴史
2.1 『山海経』の記述
2.2 漢代
2.3 三国時代の北丁令と西丁令
2.4 五胡十六国時代
2.5 高車(こうしゃ)
2.6 鉄勒(てつろく)
3 脚注
4 参考資料
5 関連項目
名称
歴史
『山海経』の記述
漢代,屈射
本始2年(前72年)、匈奴が漢と烏孫の連合軍に攻撃されて敗北を喫し、さらにその冬の大雪に遭い、多くの人民と畜産が凍死すると、それに乗じて丁令は匈奴に攻撃をかけて離反した。
神爵元年(前61年)、丁令は3年連続で匈奴に侵攻し、人民数千を殺略し、馬畜を駆って去った。匈奴は万余騎を派遣してこれを撃ったが、何も得ることなく帰還した。
紀元前49?48年頃、西匈奴の?支単于は烏孫を破り、烏掲[9],堅昆,丁令を併合し、堅昆の地に本営を置いた。
後漢の元和2年(85年)、北匈奴大人の車利,?兵らは漢に亡命すべく入塞した。時に北匈奴は衰耗しており、部衆が次々と離反していった。それに乗じて南匈奴がその南を攻め、丁令がその北を寇し、鮮卑がその東を撃ち、西域がその西を侵したので、北匈奴は自立不可能となり、遠く西方へ去っていった。
北匈奴が去ったモンゴル高原において鮮卑の檀石槐が諸部族を統合し、かつての匈奴の版図に匹敵するほどになると、檀石槐は丁令の南下を阻んだ。
これ以後の丁令はしばらく独立した状態が続く。
[10]
三国時代の北丁令と西丁令 3世紀の西域諸国と丁令の位置。
三国時代の歴史書『魏略』西戎伝(『三国志』魏書東夷伝に収録)において、その編者である魚豢(ぎょかん)はバイカル湖南の丁令国の他に、そこからはるか西方の康居の北(カザフステップ)にも丁令と呼ばれる国があることを記している。呼得国は葱嶺の北に在り、烏孫の西北、康居の東北に在り、勝兵は万余人、畜牧に随い、良馬を出し、貂あり。堅昆国は康居の西北に在り、勝兵は三万人、畜牧に随い、これもまた多くの貂,良馬あり。丁令国は康居の北に在り、勝兵は六万人、畜牧に随い、名鼠皮を出し、白昆子,青昆子皮を出す。この上の三国は、堅昆が中央で、倶に匈奴単于庭安習水を去ること七千里、南の車師六国を去ること五千里、西南の康居界を去ること三千里、西の康居王治を去ること八千里の距離にある。或いはこの丁令を匈奴の北の丁令であるとするが、この丁令は烏孫の西に在り、その種は似ているが別である。また匈奴の北には渾?国,屈射国,丁令国,鬲昆国,薪犁国があり、明らかに北海の南にも丁令があるが、これも烏孫の西の丁令ではない。烏孫の長老はこの丁令には馬脛国があると言い、その人の音声は雁?に似て、膝から上の身頭は人であり、膝から下には毛が生え、馬の脛と蹄がある。馬には乗らないが馬よりも早く走り、壮健で勇敢に戦う。 ? 『魏略』西戎伝
魚豢は「その種は似ているが別である」としているが、この問題について古くは清の丁謙が『魏略西戎伝地理攷証』にて、日本では護雅夫の『古代トルコ民族史研究』[11]、内田吟風の『北アジア史研究』[12]などによって論考されてきており、各々登場する国々(呼得国,堅昆国,丁令国)の位置観は違えど、バイカル湖南の丁令と康居の北の丁令が同じものであることでは一致しており、また、後の『旧唐書』における鉄勒の広範囲にわたる分布を見ても、それが妥当な考えであることは明らかである。
五胡十六国時代 4世紀末の五胡十六国詳細は「テキ魏」を参照
丁零族の?氏は代々康居に住んでいたが、後に中国に移住し、?斌(てきひん)の代になって後趙に臣従した。前秦の苻堅が華北を統一すると、?斌ら丁零族は前秦に臣従し、新安郡,?池郡に移住した。383年12月、前秦の衛軍従事中郎となっていた?斌は河南で挙兵し、前燕復興を目論む慕容垂らと合流して前秦に反旗を翻した。