加賀藩
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「金沢藩」はこの項目へ転送されています。武蔵国金沢を領した藩については「六浦藩」をご覧ください。
金沢城石川門(重文)

加賀藩(かがはん)は、江戸時代加賀能登越中(現在の石川県富山県)の3国の大半を領地とした。藩祖・前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。
概要

加賀国石川郡にある金沢城金沢市)に居城。明治2年(1869年)の版籍奉還後には藩名を金沢藩と定められた。

藩主の前田家外様大名ではあるが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準親藩として松平姓と葵紋が下賜された。3代・光高以降の藩主は将軍偏諱を拝領した。また、大名中最大の102万5千石を領した。

極官従三位参議と他の大名とは別格で公卿となったのは徳川一門以外では前田のみ、また伺候席徳川御三家越前松平家などの御家門が詰める大廊下である(他の外様の国持大名は大広間)[1]など御三家に準ずる待遇であった[2]他、一国一城令が布告された後に小松城の再築が許されて「一国二城」となる、将軍家にとっては陪臣である加賀八家(後述)にも武家官位が与えられるなど、他の外様大名とは別格の扱いであった。
藩史加賀藩邸跡(京都市中京区木屋町御池)
前史(桃山以前)

織田信長によって能登1国を与えられていた前田利家が、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に降って加賀2郡、さらに天正13年(1585年)には佐々成政と戦った功績によって嫡子・利長[注釈 1]に越中のうち射水砺波婦負三郡32万石を与えられて、3国にまたがり100万石を領する前田家領の原形が形成された[3]文禄4年(1595年)には越中の残る新川郡をも加増、重臣の青山吉次上杉家の越中衆(土肥政繁・柿崎憲家)から天神山城や宮崎城を受け取る[注釈 2]

慶長4年(1599年)利家の死後、利長に前田家の家督と加賀の金沢領26万7,000石を譲られる。 前田家は加賀北部と越中を領する利長と、能登に21万石を領するその弟・利政に分割されたが、総石高は合計83万石に達し、利長は五大老に準ずる役割を果たす(正式に利家の後任で大老になったとの異説もあり。「五大老」も参照)。
利長と関ヶ原

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し利長が東軍、利政が西軍に分かれ(異説あり)、戦後に利政は所領を没収された。かわりに利長が利政の旧領と加賀南部の西軍大名の旧領(丹羽長重の小松12万石と山口宗永の大聖寺6万3,000石)を授けられ、加能越3か国に及ぶ所領(加賀に能美郡白山麓の幕府直轄領あり)を獲得した。利長は領内の再検地を行ない実高の高直しを実施した[4]

寛永8年(1631年)、将軍・徳川家光は2代・利常(利長の弟)の行動を疑い「前田征伐」を計画するが、横山康玄に陳述させ、利常も自ら長子・光高と共に江戸に出て供従の意思を示すことで収めた(寛永の危機)。寛永11年(1634年8月には、家光から利常に発給された領知朱印状により、加賀・越中・能登の三国内での表高119万2760石が確定する[5]
加賀百万石の確定

寛永16年(1639年)に利常が隠居するとき、次男・利次、三男・利治を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石(10万石)をそれぞれ分与したので、102万5千石となる。支藩(別家)として他に前田利孝(利長の弟・利常の兄)を祖とする上野七日市藩1万石がある[6]

宝暦9年(1759年)には火事で金沢城の本丸を始め1万5千軒余りが炎上、幕府より5万を借用して復興にあたる。

寛政4年(1792年)藩校・明倫堂、経武館が完成する。

利常の時代に支配機構の整備が行われて藩体制が確立した。利常の孫・綱紀は、学者の招聘につとめ学問を振興した名君として名高く、兼六園は綱紀の時代に造営された。

幕末大政奉還時は将軍・徳川慶喜を支持したが、旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後、方針を改めて新政府の北陸鎮撫軍に帰順。海防に関心が深く独自の海軍を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われる。

明治4年(1871年廃藩置県によって金沢県となり、まもなく新川県・大聖寺県と合併して旧3国に広がる石川県を構成。明治16年(1883年)旧越中4郡が分かれて富山県が設置され、現在の石川県の領域が確定した。

明治17年(1884年)の華族令により旧藩主前田家は侯爵家となった。
歴代藩主

※官位は初官位と終官位(贈官位含まず)
前田家

利長 従五位下肥前守従三位権中納言

利常 従四位下侍従筑前守→従三位権中納言肥前守

光高 正四位下左近衛権少将筑前守

綱紀 正四位下左近衛権少将加賀守参議→従三位肥前守

吉徳 正四位下左近衛権少将若狭守左近衛権中将加賀守→参議

宗辰 正四位下左近衛権少将佐渡守→左近衛権中将加賀守

重煕 従五位下但馬守→正四位下左近衛権少将加賀守→左近衛権中将

重靖 従五位下上総介→正四位下左近衛権少将加賀守

重教 正四位下左近衛権少将加賀守→左近衛権中将肥前守

治脩 正四位下左近衛権少将加賀守→左近衛権中将→従三位参議

斉広 正四位下左近衛権少将筑前守→左近衛権中将加賀守・肥前守

斉泰 正四位下左近衛権少将若狭守→左近衛権中将加賀守→参議→正二位権中納言肥前守

慶寧 正四位下左近衛権少将筑前守→正四位上左近衛権中将→参議→従三位

なお利常以降、松平の称号(名字)を与えられ名乗った[7]。諸大名の中で、当主は「加州殿」ではなく加州侯と、公卿の格式を表すを付した。
家臣

加賀藩の直臣は、人持組頭、人持組、平士、足軽に大別される。人持組頭は別名を加賀八家(かがはっか)、あるいは前田八家ともいい、いずれも1万石以上の禄高を持ち、藩の重臣として藩政に関わった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:78 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef