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出典検索?: "加賀爪忠澄"
凡例加賀爪忠澄
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕天正14年(1586年)
死没寛永18年1月30日(1641年3月11日)
別名加々爪忠澄、通称:甚十郎
墓所埼玉県東松山市の高済寺(高坂館跡)
官位従五位下、民部少輔
幕府江戸幕府 旗本
主君徳川秀忠→家光
氏族加賀爪上杉家
父母父:加賀爪政尚
妻正室:安藤直次娘
子直澄、信澄、定澄、石川総長正室、三井吉次室など
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加賀爪 忠澄(かがつめ ただすみ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。加賀爪上杉家7代当主。武蔵国高坂館主。姓は加々爪とも表記する。傾奇大名(以前は旗本)として知られる上杉(加賀爪)直澄の父。 天正14年(1586年)、加賀爪政尚の子として誕生。徳川秀忠の家臣として「忠」の字を拝領している。関ヶ原の戦いや大坂の陣に勲功を立てて従五位下民部少輔となり、5,500石を知行して目付・江戸南町奉行・大目付などを歴任して加増を重ね、最終的には9,500石に加増された。また、慶長17年(1612年)には、長崎にて来航禁止のマカオ船が着航したのを目撃、船を焼いたとも伝えられる。
略歴
家督は子の直澄が継いだ。 寛永9年(1632年)、忠澄は江戸町奉行に任じられた。前年の寛永8年(1631年)、堀直之も同役の江戸町奉行に任じられている。当時の江戸町奉行は2人制の月番交代制[1]であり、堀直之は呉服橋に役宅を賜り北町奉行と呼ばれ、忠澄は常盤橋に役宅を賜り南町奉行と呼ばれた。以降、江戸町奉行の両者はそれぞれ北町奉行、南町奉行と呼ばれるようになった。すなわち名称は管轄の地域を指すのでなく、忠澄と堀に与えられた役宅それぞれの位置、呉服橋と常盤橋の位置関係が由来である。
「江戸南町奉行」
交流・逸話
利発な人柄で人脈も深く、大名間の取次ぎや斡旋、仲介に活躍した。肥後熊本藩の隠居・細川忠興や当主・細川忠利と交流があった[2]。細川忠興はその突然の死に際し、日記の中で無念を発露している[3]。
寛永7年(1630年)、陸奥国仙台藩主・伊達政宗が3代将軍・徳川家光を饗応することが決まり、家光が赴く前日に老中の土井利勝、酒井忠世らが政宗を見舞った。この際に忠澄も随伴したが、唐突に政宗から額を平手打ちされた。政宗にとっては軽い挨拶のつもりであったが、忠澄は激昂し政宗の額に平手打ちを浴びせ返したという(『伊達家文書』より[要ページ番号])。
脚注^ 以前は一人制であり、江戸期中には三人制であった時期もある。
^ 『細川家史料』「忠興文書-元和三年(1617年)」(139、七月廿三日書状)「大目付上杉民部少輔殿、池田備中(のちの旗本・井原池田氏)ヨリ鳥取城ヲ受取ニ出立(姫路城主・松平相模守殿(池田新太郎光政)、伯耆・因幡両国ヲ與へラレ鳥取城ニ移ル)」(永青文庫)
^ 山本博文『江戸城の宮廷政治』 ISBN 4061596810より[要ページ番号]。
関連項目
上杉氏
大目付
表
話
編
歴
加賀爪上杉家第7代当主(1596年 - 1641年)
宗家
重顕
朝定
顕定
氏定
持定
持朝
顕房
持朝(再襲)
政真
定正
朝良
朝興
朝定
憲勝
分家・支流
八条上杉家
朝顕
満朝
満定
持定
成定
加賀爪上杉家
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忠定
政泰
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忠澄
直澄
直清 | 断絶
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