.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}加藤(かとう) 茶(ちゃ)
本名加藤(かとう) 英文(ひでゆき)[1]
ニックネームカトちゃん(加トちゃん)
加藤ちゃん
ヒデ坊
チャー坊
生年月日 (1943-03-01) 1943年3月1日(81歳)
国籍日本
出身地 日本・東京都世田谷区(福島県福島市育ち)
血液型A型
身長163 cm
言語日本語
方言共通語・福島弁
最終学歴電気学園福島工業高等学校(現松韻学園福島高等学校)中退
師匠桜井輝夫
出身クレージーウエスト
グループ名ザ・ドリフターズ
芸風コント
事務所渡辺プロダクション
↓
イザワオフィス
活動時期1960年 -
過去の代表番組『8時だョ!全員集合』
『ドリフ大爆笑』
『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』
他の活動タレント
ドラマー
バンドボーカル
配偶者加藤鈴子
加藤茶
出生名加藤(かとう) 英文(ひでゆき)
生誕 (1943-03-01) 1943年3月1日(81歳)
出身地 日本・東京都世田谷区
担当楽器ドラムス
ボーカル
活動期間1960年 -
共同作業者ザ・ドリフターズ
こぶ茶バンド
加藤 茶(かとう ちゃ、1943年〈昭和18年〉3月1日 - )は、日本のコメディアン、ミュージシャン、司会者、ドラマー、俳優。
ザ・ドリフターズのメンバーとしてテレビ・映画に多数出演。1960年代後半から70年代前半にかけて子供達の間で人気者となる。ドリフの活動縮小後は、加トケンやこぶ茶バンドでも活躍した。
本名?加藤 英文(かとう ひでゆき)[1][2]。身長163cm。
愛称は「カトちゃん(加トちゃん)」「ヒデ坊」「チャー坊」など。父はギタリストの平八郎(たいら はちろう)。 1943年、東京府[注 1]東京市世田谷区(現:東京都世田谷区)生まれ[3]。5歳の夏の1か月間だけ母親・寿磨子(1916年?1980年)の実家・愛媛県新居浜市に住む。ギタリストの父親・平八郎(1915年?1955年)が癌を患ったため、母親、妹とともに父親の郷里・福島県福島市へ転居し福島で育った。 少年時代には平泳ぎが得意で、中学生のときの全校水泳大会の自由形では他の選手が全員クロールのなか、加藤だけが平泳ぎだったのにもかかわらず1着になったというエピソードがある[4]。その後、無線に興味があったことから電気学園福島工業高等学校に入学。 1960年の正月に叔母に会いに上京した際、滞在中に高校中退を決断し、トロンボーン奏者を目指してスターダスターズのバンドボーイに就く。しかし、トロンボーンは高額で容易に入手できないことが分かると、ドラマーに捨てておいてと頼まれたドラムスティックを削って再生し、ドラムのチコ菊池からドラムを1日8時間、1週間教えてもらう。その半年後に横浜にいる菊池の兄のバンドのドラマーとして加入[5]。スターダスターズを辞めたのはある日手当ての100円をマネージャーに催促したところマネージャーに100円を投げつけられ、この態度に怒った加藤はそのマネージャーとの喧嘩に発展し、クビになったからである。 その後、1961年にドラマーとしてクレージーウエストにメンバー入りし、仲本コージ(後の仲本工事)と出会う[6]。 1962年、碇矢長一(後のいかりや長介)と同時期に、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」のメンバーに加入した[注 2]。 1964年には、ドリフ初レギュラー番組『ホイホイ・ミュージック・スクール』での「加トちゃんぺ」のギャグが受け、一躍人気者になる。放送作家の田村隆によれば、『ホイホイ』の収録で90秒の音楽ギャグのオチがよくないとみんなでいろいろ考えていたところに、ディレクターの白井荘也が「小野チン(小野ヤスシのニックネームであった)が、ヒゲ付けて目玉を寄せてぶっ倒れるオチにしよう」と提案してきたが、小野がこれに拒否的な態度をみせたことで(当時ディレクターは反論など許されないような絶対的な存在だった)、周囲の穏やかな空気が止まったのを察知した加藤が「それ僕がやります」と自らその役を買ってでて演じたことから生まれたギャグだった[7]。そして、付け髭の糊が剥がれやすかったために、たびたび2本指で押さえていたものがギャグとして通用したと加藤本人が語っている。 1964年、ドリフが分裂し(詳細は当該項目を参照)、小野ヤスシらはドリフを脱退して「ドンキーカルテット」を結成するが、加藤はいかりやとともにドリフに残留した。新生ドリフ活動開始直後、当時所属していた渡辺プロダクションの先輩・ハナ肇に「芸事で飯を食っていこうとするのなら、水に係わりのある芸名にした方がいい。お前は、みんなから「加トちゃん」って呼ばれてるんだから、加藤茶にしなさい」と言われ、加藤茶になった。 1969年より『8時だョ!全員集合』にて、さまざまな一発芸をヒットさせ、1970年代前半には小学生の間でカリスマ的存在になる。「ちょっとだけヨ」の例 社会や人間関係の縮図をデフォルメした初期のコントや映画においてはお笑い(いつも損をする役、イジメられ役、道化)の中心で、ドリフターズ・メンバーの中で最も持ちネタやギャグが多かった。特に『全員集合』で披露した、「タブー」の曲に合わせて踊る「ちょっとだけヨ」で大ブレイク。同時期に「1、2、3、4、やったぜ加トちゃん!ぐるりと回ってウンコチンチン」も大人気となった。 このころ加藤は、付き人兼居候として志村けん、運転手としてすわしんじ(後のすわ親治)を抱えていた。本人曰く、1974年3月の荒井注脱退の際[注 3]、いかりやは新メンバーとして豊岡豊の加入を考えており、芸能雑誌ではすわしんじも候補に挙がっていたが、加藤が「(長年ドリフに付き、コントの作り方もよく知り、また芸能活動経験もすでにあった)志村を加入させた方がいい」と強く主張し、これにいかりやが折れてまだ当時無名の存在だった志村が新メンバーに決まった[8][9]。 志村が一躍人気者となった後は、一手にギャグを受け持つ存在から、志村とのコンビで笑いを生み出す存在へと立ち位置を変化させた。特にドリフ大爆笑では志村と息の合ったコントを披露していた。このことが、『全員集合』の後番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『KATO&KENテレビバスターズ』へつながっていき、加藤と志村は加トちゃんケンちゃんと呼ばれるようになった。
来歴
生い立ち
ドリフターズ加入まで
ドリフターズ加入後
全員集合で大ヒット
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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