加藤芳郎
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加藤 芳郎
1956年
本名同じ
生誕1925年6月25日
東京府豊多摩郡代々幡町
(現・東京都渋谷区
死没 (2006-01-06) 2006年1月6日(80歳没)
東京都新宿区
国籍 日本
職業漫画家タレント
活動期間1947年 - 2001年
ジャンル4コマ漫画風刺漫画
代表作『まっぴら君
受賞第3回文藝春秋漫画賞1957年
紫綬褒章1986年
第36回菊池寛賞1988年
NHK放送文化賞1989年
勲四等旭日小綬章1996年
第28回日本漫画家協会賞文部大臣賞(1999年
東京都文化賞(2000年
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加藤 芳郎(かとう よしろう、1925年大正14年〉6月25日 - 2006年平成18年〉1月6日[1])は、日本漫画家放送タレント週刊文春』 1959年12月14日号文春歌舞伎『京鹿子娘道成寺』の一場面。右から、加藤芳郎、平岩弓枝小山いと子芝木好子五味康祐平林たい子森田たま
来歴
生い立ち

東京府豊多摩郡代々幡町(のちの東京都渋谷区)生まれ[2]。8人兄弟の6番目[2]。父親は岩手県胆沢郡水沢町(のちの水沢市奥州市水沢区)出身で、東京市役所に勤務していた[2]。母親は埼玉県北足立郡鳩ヶ谷町(のちの川口市→鳩ヶ谷市→再度川口市に復帰)の出身[2][3]。加藤は幼いころから絵を描くのが好きで、父親は加藤の描く絵を見ては「美術学校に入れてやろう[2]」とほめるのが常だったという。また、『のらくろ』『冒険ダン吉』などの児童漫画作品に親しんだ[2]。加藤が10歳の頃に父親が定年を迎え、嘱託契約に切り替わって以降は、兄たちが家財を質入れして食料を調達するなど、生活が苦しくなり、美術学校入りの夢はいったん断念する[2]

病院の給仕として昼間に働きながら、旧制東京府立第六中学校夜間部に通学[2]。そのころ、1939年(昭和14年)、雑誌『アサヒグラフ』の投稿欄に漫画が掲載され、賞金を受け取ったことをきっかけに、プロ漫画家の夢を抱く。『週刊少国民』『オール讀物』『モダン日本』などで入選を重ね[2]近藤日出造主宰の『漫画』で一等入選するに至った[1]冨田英三によれば、近藤はこのころの加藤を「おそるべき少年」と激賞していたという[4]

府立六中を卒業後、川端画学校[1][5]で学んだのち、東京都防衛局[2]職員となり、ほどなくして「北支の歩兵部隊[2]」の隊員として出征。古北口で敗戦を迎えた[2]
漫画家として1955年

1945年(昭和20年)12月に復員後、都庁に復職するが、所属していた防衛局が廃止されて消滅していたため、建設局公園緑地課に移籍し、案内看板の製作に従事する[2]。『漫画』誌への投稿を再開し、主宰の近藤日出造から直接プロへの転向をすすめられる。1948年(昭和23年)に都庁を退職し、専業漫画家として独立[1][2]

オンボロ人生』『オレはオバケだぞ』『千匹の忍者』などの連載作品を通じ、「庶民生活のペーソスをナンセンスにえがいた[1]」作風で人気となる。硬質な線とシンプルな造形による極端にデフォルメされた人物描写と、角張り、押しつぶしたような筆跡の書き文字が特徴。1954年(昭和29年)から毎日新聞夕刊で連載された『まっぴら君』は、2001年(平成13年)6月23日掲載を最後に病気で中断するまで連載47年間、13615回に達し、全国紙では空前の連載記録を樹立した[6]

漫画界では横山泰三荻原賢次とともに「戦後派三羽烏」と呼ばれた[7]

1981年から1996年の間、日本漫画家協会の理事長・会長を歴任し、同協会の社団法人化に尽力した。
受賞歴

1957年 第3回文藝春秋漫画賞

1986年 紫綬褒章

1988年 第36回菊池寛賞[8]

1989年 NHK放送文化賞

1996年 勲四等旭日小綬章

1999年 第28回日本漫画家協会賞文部大臣賞(『まっぴら君』)[9]

2000年 東京都文化賞

タレントとして

タレントとしては、『テレビ三面記事 ウィークエンダー』(日本テレビ)の司会[4]、『テレフォン人生相談』(ニッポン放送)パーソナリティー、『連想ゲーム』(NHK総合テレビ)の白組・男性軍のキャプテンなどで親しまれた。特に「連想ゲーム」では、洒脱な話術とヒントの出し方で人気を博した[10]
晩年

2005年1月から入退院を繰り返していた[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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