かとう せいいち
加藤 精一
本名同
生年月日 (1889-04-11) 1889年4月11日
没年月日 (1963-08-28) 1963年8月28日(74歳没)
出生地 日本 岡山県上房郡高梁町
加藤 精一(かとう せいいち、1889年4月11日 - 1963年8月28日)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。本名同じ[1][2][5]。坪内逍遙の文芸協会に参加、新劇の初期から舞台俳優として活動した人物として知られる[1][2]。
目次
1 人物・来歴
2 フィルモグラフィ
2.1 新劇時代
2.2 新興キネマ東京撮影所
2.3 フリーランス
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
人物・来歴(現在の同県高梁市)に生まれる[1][2][5]。父は熊本藩の漢学者出身の人物であったが、精一の出生後、まもなく死去したため、精一は、加藤家の養子となった[1]。のちの俳優の成松和一(1905年 - 1944年)は義弟にあたる[8]。
東京に移り、早稲田大学英文科に入学、小川未明、三木露風、北原白秋、西條八十らと詩作を通じて親交を結んだ[1]。同学在学中に坪内逍遙に師事し、1909年(明治42年)、坪内が設立した文芸協会演劇研究所第1期生になる[1][2]。研究所の同期には、上山草人、山川浦路、森英治郎、横川唯治(山田隆弥、のちの山田隆也)、佐々木積、武田正憲、小林正子(松井須磨子)らがいる[1]。1911年(明治44年)3月、同学を卒業する[1][2]。同年5月には、帝国劇場での同協会第1回公演として、ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『ハムレット』(訳坪内逍遙)の全幕上演が行なわれ、ポローニアス役を演じて初舞台を踏んだ[1]。1913年(大正2年)6月、帝国劇場での同協会第6回公演として、シェイクスピア悲劇『ヂユーリアス・シーザー』が日本初演され、主役のジュリアス・シーザーを演じる[1]。同年7月、同協会が解散し、同年10月、山田隆弥(のちの山田隆也)、佐々木積、森英治郎、吉田幸三郎、岡田嘉子らとともに、舞台協会を設立、同年11月28日、帝国劇場での同協会第1回公演として、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『悪魔の弟子(英語版)』(訳舞台協会)、ヴィルヘルム・フォン・ショルツ(ドイツ語版)の戯曲『負けたる人』(訳森?外、Der Besiegte, 1899年)を上演した[1][9][10]。その後、新文芸協会、同志座に参加し、田中智学の國性劇を主宰した[1]。女優の三井光子と結婚、1919年(大正8年)10月31日には、長女の加藤道子が生まれている[11]。
同志座在籍時の1925年(大正14年)、兵庫県西宮市甲陽園にあった東亜キネマ甲陽撮影所が同志座と提携して、『潮』(監督賀古残夢)を製作、同年9月29日に公開したが、これに坂巻東吾役で主演したのが、映画への初出演である[1][3][4]。1929年(昭和4年)には、東京の発声映画社大森撮影所(のちのミナトーキー)が製作した、中内蝶二の戯曲を原作とした初期トーキー作品『大尉の娘』(監督落合浪雄)に、退役陸軍大尉・森田慎蔵の役で主演、新派の女優・初代水谷八重子と共演、同作は同年11月1日に公開された[1][3][4]。
1936年(昭和11年)、新興キネマに入社、同年2月に東京府東京市板橋区東大泉町(現在の東京都練馬区東大泉2-34-5)に同社が新設した新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)に所属、助演俳優として活動した[1][3][4]。