加藤泰
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かとう たい
加藤 泰
キネマ旬報』1962年4月上旬春の特別号より
本名加藤 泰通
生年月日 (1916-08-24) 1916年8月24日
没年月日 (1985-06-17) 1985年6月17日(68歳没)
出生地兵庫県神戸市
国籍 日本
職業映画監督脚本家
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加藤 泰(かとう たい、1916年大正5年〉8月24日 - 1985年昭和60年〉6月17日)は日本映画監督脚本家。本名:泰通(やすみち)[1]兵庫県神戸市生まれ[2][3]愛知県名古屋市育ち。時代劇任侠映画の名監督として活躍。代表作に『沓掛時次郎 遊侠一匹』、『瞼の母』、『明治侠客伝 三代目襲名』、『真田風雲録』、『緋牡丹博徒シリーズ』、『江戸川乱歩の陰獣』がある。
家族

山中喜三右衛門(母方の祖父)

加藤郷里(父親・貿易商)
[2][3][4]

山中トモ(母親)

山中貞雄(母方の叔父・映画監督)

加藤榮(妻・スプリクター)[5]

加藤文(長女・脚本家[5]、小説家[6]

来歴キネマ旬報社『キネマ旬報』第430号(1967)より沓掛時次郎 遊侠一匹』(1966年)

神戸で貿易商の家に生まれるが、父の商売が失敗し、五歳頃、父の郷里、名古屋の祖父に預けられる。上京していた父は関東大震災で名古屋に逃げ帰り、やがて商社に勤める。父からは商業学校進学を勧められるが、進路を極められてしまうことに耐えられず、工業学校で折れ合う。愛知県立工業学校機械科に入学するが、2年時の1930年5月に観た伊藤大輔の『続大岡政談・魔像篇第一』に熱狂、映画の魅力に取りつかれる。工業学校を2年で中退し、いったん京都の貿易会社に入るが、映画への情熱さめやらず、1937年、PCL入社のために上京していた叔父の山中貞雄を頼り上京[2]。同年、山中の出征後、東宝撮影所に入社した。いわゆるコネ入社であったが、工業学校中退では体裁が悪いということで、人事担当者が勝手に「日本大学卒業」ということにしてくれたという[7]。東宝では芽が出ず、師事していたシナリオ作家の八木保太郎の紹介で、理研科学映画に移り、海軍発注の『潜水艦』(1941)、浮遊選鉱についての科学映画『泡』を監督、1943年、満州映画協会の制作部長になっていた八木に呼ばれ満州に渡り、教育映画『虱は怖い』を作る。初監督作品『潜水艦』(1941年)は、監督免状が下りなかったため、西尾佳雄監督名義となっている。

1946年、帰国。大映京都撮影所助監督部に入社し、少年時代映画のとりことなるきっかけを作った伊藤大輔監督作品につくこととなる。また、黒澤明監督『羅生門』では、印象的な予告編を手掛けている。しかし、大映の組合書記長を務めたことでレッド・パージの対象となり同社を解雇され、独立プロの宝プロダクションに転職。1951年に時代劇『剣難女難』で劇映画デビューする。その後嵐寛寿郎の座付き作者としてシナリオを書き[8]、本が売れ始めたため作家になろうとしていた[8]

しかし満映時代の友人で東映京都撮影所の製作部長だった辻野公晴と京都撮影所製作課長だった岡田茂から[8]東映で助監督にならないかと誘われ[8]、友人はみな反対したが[8]チャンバラ映画が好きだったため、思い切って1956年、東映に移籍[8]

佐々木康に一年就いた後、1957年の『恋染め浪人』で東映で初監督[8]。 白塗りのスターが活躍するのが主流だった時代に、あえて主要キャストがノーメイクで出演する『風と女と旅鴉』(1958)、長谷川伸の名作を甦らせた『瞼の母』(1962)、そしてミュージカルやSF、リアルタイムの時代批判などさまざまな要素を詰め込んで後に「東映時代劇のヌーヴェルヴァーグ」と絶賛された異色作『真田風雲録』(1963)など、東映の看板スターだった中村錦之助と組んで数々の作品を監督する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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