加藤治郎 名誉九段
名前加藤治郎
生年月日 (1910-06-01) 1910年6月1日
没年月日 (1996-11-03) 1996年11月3日(86歳没)
プロ入り年月日1934年5月(23歳)[1]
引退年月日1949年(38歳)
棋士番号14
出身地東京府東京市(現:東京都港区[注 1])
所属日本将棋連盟(関東)
→日本将棋革新協会
→将棋大成会(関東)
→日本将棋連盟(関東)
師匠山本樟郎
加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996年11月3日)は昭和期の将棋棋士。名誉九段。棋士番号14。東京府東京市(現在の東京都港区[注 1])出身。山本樟郎八段門下。早稲田大学を卒業した、初の大学出身プロ棋士。 麻布森元町の酒屋に生まれる。旧制芝中学校(現・芝中学校・高等学校)、早稲田高等学院をへて、早稲田大学商学部に進んだ。 芝中学校在学中の15歳ごろから、本格的に将棋をはじめる。田中喜三郎の道場にかよい、半年後には道場の師範代格になる。早稲田高等学院進学後、山本樟郎の道場に通う。1933年から、早稲田高等学院在学中に、奨励会の運営をしていた中島富治
略歴
早稲田大学の二年生時に、大学将棋部第一号とされる早大将棋研究会の発起人となった。
早大卒業後、やはり中島の勧め、はからいにより、奨励会に付け出し三段で入会し、大学出身者初のプロ棋界入りとして話題となる。当時は棋士の社会的評価が低く、叔母などには「大学まで出ながら情けない」と嘆かれたという。翌年に四段昇段。
順位戦でA級から降級したのを期に1949年、39歳で引退。高柳敏夫と共に潔い去り際として知られる。
人物
1946年には、休刊していた将棋世界を再刊して編集長となる[2]。
引退後は観戦記者として活躍。三象子等のペンネームで棋聖戦や王座戦などの観戦記を執筆。1984年、観戦記1500局以上で、日本将棋連盟から功労賞[3]。
観戦記のペンネームは朝日新聞・日本経済新聞が三象子(早逝した子息の名前「象三」にちなむ)、大阪新聞と時事新報が「歩三坊」、東京新聞が「山竜子」、産経新聞では本名で執筆した[4]。
1949年、将棋連盟会長の渡辺東一から委任され、当時・副会長の加藤は、名人戦の契約交渉を毎日新聞社と行い、主催を朝日新聞社へ移した[5]。
1957年から1961年まで、二期四年日本将棋連盟会長を務めて、旧将棋会館を建設した[6]。
1973年から、再び日本将棋連盟会長を務め、将棋会館新設にあたったが、A級棋士らの反対にあい、1974年に会長の座を塚田正夫にゆずった[7]。1982年、連盟の名誉会長になる[8]。
同1973年には、九段への昇段規定を緩和し、囲碁に比べて人数が少なかった将棋九段を増やす制度とした[9]。
また、NHK教育テレビ「将棋講座」の講師も務め、解り易い解説で親しまれた。
1948年に最初に刊行された[10]名著『将棋は歩から』の著者として知られる。同著書内に記述されている「タレ歩」「ダンスの歩」など歩の手筋の名付け親として有名。また「陽動振り飛車」「ガッチャン銀」「ちょんまげ美濃」「駅馬車定跡」「箱入り娘」の名付け親も加藤である。なお「ちょんまげ美濃」に関しては加藤は気に入っておらず「この呼び方は我ながらいかにもまずい」といい、誰かいい名前をつけて欲しい旨の微妙な発言を残している。
曲詰の一種である「アブリ出し式詰将棋」の命名も、1937年の渡辺進の作品についての、加藤の命名によるもの。
『近代将棋』上に「将棋の公式」を連載し、後に書籍として東京書店から出版された。将棋の基本的な考え方を数学的な「公式」としてまとめたもので、類書が少なく、2001年には復刻版が出版されている。
1987年の「将棋ペンクラブ」創設時に名誉会長。加藤の死去後は弟子の原田泰夫が名誉会長に就任。
喫煙者で、缶ピース党だった[11]。
2023年現在、タイトル経験も棋戦優勝の経験もない将棋連盟会長は加藤が最後である。
観戦記は名文として坂口安吾から激賞された。また、将棋の理論的分析について菊池寛から高い評価を受けている。菊池は「将棋は歩から」の序文も執筆した。
山本門下の弟弟子には富沢幹雄がいる。