加藤楸邨
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加藤 楸邨
(かとう しゅうそん)
誕生加藤 健雄(かとう たけお)
1905年5月26日
大日本帝国東京府荏原郡池上村北千束
死没 (1993-07-03) 1993年7月3日(88歳没)
日本東京都目黒区東が丘
国立東京第二病院
墓地東京都世田谷区奥沢
九品仏浄真寺
職業俳人
国文学者
国籍 日本
最終学歴東京文理科大学国文学科卒業
活動期間1931年 - 1993年
ジャンル俳句
文学活動寒雷
人間探求派
代表作『寒雷』(1939年)
『火の記憶』(1948年)
『まぼろしの鹿』(1967年)
芭蕉全句』(1969年)
主な受賞歴馬酔木賞(1933年)
蛇笏賞(1968年)
紫綬褒章(1974年)
詩歌文学館賞(1987年)
勲三等瑞宝章(1988年)
現代俳句大賞(1989年)
朝日賞(1992年)
デビュー作『寒雷』(1939年)
配偶者加藤知世子(1929年 - 1986年死別)
影響を受けたもの

村上鬼城

影響を与えたもの

寒雷同人の俳人

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加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年明治38年)5月26日 - 1993年平成5年)7月3日)は、日本俳人。本名は健雄(たけお)。位階従四位

水原秋桜子に師事。初期は『馬酔木』に拠ったが、苦学する中で同誌の叙情的な作風に飽き足らなくなり、人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を追求、石田波郷中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。第二次世界大戦後は戦災や社会運動への参加などを経て幅の広い作風を展開、また主宰した『寒雷』では伝統派から前衛派まで多様な俳人を育てた。
生涯

現在の東京都大田区北千束に生まれる。父・健吉、母・千佳の長男。当時、健吉は私設甲武鉄道の駅員で、東京転勤の命を受けた直後の出生であったため、出生届は前任地の山梨県大月市で出された[1]。翌年、鉄道国有法の成立に伴って甲武鉄道が国有化され、健吉も鉄道官吏となる。以後は父の転勤に伴い、楸邨は少年時代を関東、東海、東北北陸と転々として過ごした。1921年、父の定年退職に伴い、母の郷里である石川県金沢市に転居、石川県立金沢第一中学校(現:石川県立金沢泉丘高等学校)へ転校[2]。この頃に石川啄木斎藤茂吉などを愛読し、短歌を作る。1923年に金沢一中を卒業、父の病臥によって生活が窮乏したため進学を諦め、石川県松任町立松任小学校(現:白山市立松任小学校)に代用教員として務める。

1925年、父の病死を期に母、弟妹と4人揃って上京。しかし職が得られなかったため茨城県水戸市に移り、楸邨はまた代用教員となる。1926年、単身で上京して東京高等師範学校併設の東京高師第一臨時教員養成所国語漢文科に入学。家庭教師で学資を稼ぐかたわらツルゲーネフドストエフスキーを愛読した[3]1929年、養成所卒業と同時に矢野チヨセ(加藤知世子)と結婚。旧制埼玉県立粕壁中学校(現:埼玉県立春日部高等学校)に教員として奉職。1931年、粕壁中学の同僚たちに強引に誘われ、それまで興味のなかった俳句を始める。この同僚たちは村上鬼城門であったため、楸邨もしだいに鬼城に傾倒。さらに粕壁の病院に応援診療に来ていた水原秋桜子と会い、これを契機として秋桜子に師事し、『馬酔木』に投句を開始[4]。すぐに頭角を現し、1933年に第2回馬酔木賞を受賞。1935年、『馬酔木』同人に推される。

1937年、秋桜子の慫慂を受けて決意し、教員を辞して東京文理科大学(現:筑波大学)国文科に入学。妻と三人の子を連れて上京し、石田波郷ともに『馬酔木』発行所で編集および発行事務を務めながら大学に通う。大学では能勢朝次の指導を受けており、同窓に小西甚一などがいた[5]


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