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凡例加藤忠広
加藤忠広像(本妙寺蔵)
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕慶長6年(1601年)
死没承応2年閏6月8日(1653年8月1日)
改名虎藤(幼名)、忠広
別名虎之助
戒名帝光院殿証誠覺日源大居士(鶴岡本住持墓碑)
盛徳院殿最乗日原大居士(肥後本妙寺など)
墓所山形県鶴岡市の本住寺
官位従五位下肥後守、従四位下侍従
幕府江戸幕府
主君徳川家康、秀忠、家光
藩肥後熊本藩主、出羽丸岡藩主
氏族加藤氏
父母加藤清正、正応院
兄弟虎熊、本浄院、忠正、忠広、瑤林院、
貴田正勝
加藤 忠広(かとう ただひろ)は、江戸時代前期の大名。肥後国熊本藩2代藩主。 慶長6年(1601年)、加藤清正の三男として生まれる。兄の虎熊、熊之助(忠正)が早世したため、世子となる。 慶長16年(1611年)、父の清正が死去したため跡を継いだ。11歳の若年であったため、江戸幕府は加藤家に対して9か条からなる掟書を示し、「水俣城、宇土城、矢部城の廃止」「未進の年貢の破棄」「家臣に課せられる役儀の半減(役儀にかかる経費の削減、ひいてはその費用の百姓への転嫁を抑制する)」「支城主の人事と重臣の知行割は幕府が行う」ことを継承の条件とした[1]。後に一国一城制によって、鷹ノ原城
生涯
相続と改易
藩政は重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人を務めたと言われている。支城の廃止と人事の幕府による掌握および合議制の導入は、清正時代に重臣が支城主として半独立的な権力を持っていたのを規制する意図があったと考えられている[1]。しかし、年若い忠広には家臣団を完全に掌握することができず、牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、政治は混乱したと言われている。また、同じ九州の小倉藩を領していた細川忠興は周辺大名の情報収集に努めており、忠広の行状を「狂気」と断じて警戒していた[3]。忠興の子細川忠利も光正の某書事件の際に情報を探らせ、「肥後の国政悪しく行跡乱れて」と、国の統治が乱れて危機的な状態にあった証言が遺されている[4]。また、正室・側室間のトラブル(女子之儀)も原因となったと考えられている[5][6]。寛永9年(1632年)5月22日、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主・酒井忠勝にお預けとなった。改易の際、国元では籠城の構えが見られたものの、忠広直筆の書状が届いたことで開城に至っている[7]。 その後、出羽国丸岡に1代限りの一万石を与えられ、母・正応院や側室、乳母、女官、20名の家臣とともに50人の一行で江戸を立ち(細川忠興書状)、肥後に残していた祖母(正応院の母)も呼び寄せて、丸岡で22年間の余生を過ごした。丸岡は堪忍領であり、年貢の取立てなどは庄内藩の代官が行ったので、配所に赴いた家臣20名はもっぱら忠広の身辺に仕えた。徳川家光は忠広を激しく憎んでいた(細川忠興書状)ようで、庄内藩には幕府老中の松平伊豆守信綱を通じて「庄内の悪所」を渡すよう命じられており、実際の年貢は三千石に満たなかった[8]。 だが、庄内藩による足し米や京都本圀寺に在住していた旧家臣団からの仕送り[注 1]があったため、厳しい流謫暮らしになると思われた忠広の生活は、文学や音曲に親しみ、書をしたり、和歌を詠んだり、金峯神社参拝や水浴びなどをしたり、かなり自由な生活であったとされる[9]。配流の道中に始めた歌日記1年余の319首を『塵躰集』に編んでいる。 徳川義宣の研究によれば、『小倉百人一首』で耳馴れた語句を用いた歌が数多く、『伊勢物語』にも大きな影響を受けており、東国へ下った業平のように身をやつした己を見て感慨にむせぶ様子が窺える。同様に光源氏にもその身を投影したものか『源氏物語』からの引用も多く見られるという[要出典]。尺八など楽器に親しむ歌もある。表では小姓たちに、奥では母、乳母、祖母、愛妾、侍女たちに囲まれ、歌を詠み、源氏を繙き、音曲を奏で、酒に酔っては花鳥を慈しみ風月を愛でるといった、地味でありながらも充実した生活を送っていたことが垣間見える。 『塵躰集』では父清正を歌ったものや側室法乗院を懐かしがるものや姉のあま姫への想いを歌にしたものがあった一方、正室の崇法院や嫡男の光広について歌ったものはなく、特に家康の孫である崇法院との関係性が垣間見える[10]。 20年を過ごした慶安4年(1651年)6月に母が没し、2年後の承応2年(1653年)に忠広本人も死去した。享年53。遺骸は忠広の遺言が聞き届けられ、屋敷に土葬してあった母・正応院の遺骸と共に本住寺(現・山形県鶴岡市)に葬られ、墓も並んで造られた。家臣の加藤主水は剃髪をし僧侶となり、忠広の墓守になった。遺臣のうち希望した6人が庄内藩に召抱えられ、その子孫は幕末まで庄内藩に仕えた。 春日局の兄・斎藤利宗は父の清正により5,000石で召し抱えられ、忠広にも仕えていたが、徳川忠長と親交が深まると暇を請い熊本より退去し、旗本として幕府に同石高で召し抱えられている。 嫡男・光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状の偽物を作って遊んだこと、駿河大納言事件に連座したこと、豊臣恩顧の大名だったこと、改易ありきの幕府の謀略などが挙げられていたが、研究の結果、所説は否定されることになる[11]。
流人の生活
改易の理由