加藤建夫
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加藤 建夫
加藤建夫(1942年初頭の南方戦線にて)
生誕1903年9月28日
日本
北海道 上川郡東旭川村
(現:旭川市
死没 (1942-05-22) 1942年5月22日(38歳没)
ビルマ(現: ミャンマー
アレサンヨウ西方沖(ベンガル湾
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1918 - 1942
最終階級陸軍少将
墓所多磨霊園
愛宕墓地
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加藤 建夫(かとう たてお、1903年明治36年)9月28日 - 1942年昭和17年)5月22日)は、日本陸軍軍人戦闘機操縦者。最終階級陸軍少将位階勲等従四位勲三等功二級。北海道上川郡東旭川村(現:旭川市東旭川町)出身。旭川中学(現:北海道旭川東高等学校)、仙台陸軍幼年学校陸軍士官学校陸軍大学校(専科)卒。

太平洋戦争大東亜戦争)緒戦時、戦隊長として「加藤隼戦闘隊」こと飛行第64戦隊を率い、一式戦闘機「隼」をもって活躍した、帝国陸軍(陸軍航空部隊)のみならず日本軍を代表するエース・パイロットの一人。
来歴・人物
幼少期

1903年(明治36年)9月28日、北海道上川郡にて屯田兵として京都綴喜郡から北海道に入植した父・鉄蔵、母・キミとの間に加藤家の末子(兄・農夫也、姉・貞)として誕生する。のちに父は日露戦争一等軍曹として旭川歩兵第27連隊に従軍、3月10日奉天会戦にて戦死、功七級金鵄勲章を受勲し曹長となった。1918年大正7年)9月、建夫は陸軍軍人だった父兄に倣い仙台陸軍幼年学校に入校。

兄・農夫也は陸軍士官学校を優等で卒業した逸材だったが、砲兵将校として陸軍砲工学校在学中の陸軍砲兵少尉時代に、流行性感冒インフルエンザ)で早逝する。父親代わりとして弟妹に接し、家族思いだった優しき兄を亡くした事に建夫は酷く落ち込むが、幼年学校の生徒監の支えもあり大きく持ち直し、また後の自身の人格を深く形成する事となった。
パイロットとして1938年春、石家荘において九五式戦闘機とともに

1925年(大正14年)7月、陸士本科(37期、兵科歩兵)を卒業し、見習士官を経た10月26日に札幌歩兵第25連隊附の陸軍歩兵少尉に任官するも、翌27日にはもとより航空に興味のあった本人の希望で航空兵に転科し飛行第6連隊附の陸軍航空兵少尉となる(同年は帝国陸軍に独立した兵科として初めて航空兵科が設けられた年である)。1926年(大正15年)6月、所沢陸軍飛行学校に第23期操縦学生として入校し、卒業時には技量成績優秀として御賜の銀時計を拝受し後のエースとしての頭角を現す。1929年(昭和4年)6月に結婚、のちに3人の男子をもうける。なお、長男の正昭は戦後に素粒子物理学を専攻して理学博士の学位を取得。東京大学教養学部教授を経て東京大学名誉教授となった。

陸士本科の生徒隊区隊長を経て、1937年(昭和12年)10月26日には日中戦争支那事変)に陸軍航空兵大尉・飛行第2大隊第1中隊長として従軍、1938年(昭和13年)3月25日朝、帰徳上空にて中国空軍第3大隊と交戦。この戦闘で加藤は4機を撃墜したが、僚機の川原幸助中尉を失った。翌3月26日には航空部隊として初めて加藤率いる第1中隊に感状(部隊感状)が授与されるなど活躍する。

1938年5月には陸軍大学校入校を命じられ戦地から帰国。1939年(昭和14年)3月に陸大専科卒業後、今度は陸軍航空総監部陸軍航空本部部員を拝命。同年7月には事変におけるエースとしての活躍が認められ、寺内寿一陸軍大将らの等各国への視察旅行の随行に参加。訪独時には、既に第二次世界大戦の火蓋が切られている東部戦線ポーランド)・西部戦線の両戦線を帝国陸軍一行共々視察し、加藤は戦闘機操縦者として先進ドイツ空軍の航空事情を調査し、最新鋭のメッサーシュミット Bf 109に搭乗する機会をもった。
戦隊長として詳細は「一式戦闘機」を参照後述の映画『加藤隼戦闘隊』にて第64戦隊機を「演じた」明野陸軍飛行学校の一式戦二型(キ43-II)たち。明飛校の保有機に飛行第64戦隊第1中隊の部隊マークである「白矢印」を描いた。
なお戦隊長である加藤の搭乗機は本部所属機を示す「コバルトブルー色で縁取りされた白矢印」を部隊マークとして、さらに戦隊長標識として主翼に「白の斜線」を描く

1941年(昭和16年)4月、陸軍少佐・4代目戦隊長として広州天河飛行場駐留の飛行第64戦隊に着任。なお、第64戦隊は加藤がかつて中隊長を務めていた飛行第2大隊第1中隊と、同大隊第2中隊および独立飛行第9中隊の計3個飛行中隊が合同して1938年8月1日に編成された飛行戦隊である。

1941年8月末に部隊は新鋭の一式戦「隼」[注 1]に機種改変を行い、ここに「加藤隼戦闘隊」が誕生した。詳細は「一式戦闘機#南方作戦」を参照

太平洋戦争開戦後、第64戦隊と「隼」は各地の航空撃滅戦において連合軍を圧倒、加藤自身も積極的に「隼」に搭乗し戦隊長として空中指揮・戦闘に活躍し、南方作戦の成功に大きく貢献している。中でも1942年(昭和17年)2月14日、オランダ領東インドインドネシアパレンバン油田地帯に対して行われたパレンバン空挺作戦において、奇襲空挺攻撃を行う第1挺進団空の神兵)の護衛・援護を第64戦隊と第59戦隊の「隼」が担当した際には(加藤は戦闘隊指揮官として第59戦隊を含む統一指揮)、イギリス空軍ホーカー ハリケーン2機を確実撃墜している(マクナマラ少尉機・マッカロック少尉機、この撃墜戦果の内1機は加藤の戦果とされている。この他更に2機が燃料切れで不時着)。この空挺作戦において、「隼」と挺進兵を乗せた輸送機に損害はなく(唯一、爆弾倉を用いて物料箱の投下にあたっていた飛行第98戦隊の九七式重爆撃機1機が高射砲の攻撃により墜落のみ)、無事降下した挺進団はパレンバン油田・製油所飛行場・市街地全てを1日で制圧している。これによって、日本軍は太平洋戦争の開戦意義であり最重要攻略目標である南方資源地帯確保を達成した。同年2月19日、陸軍中佐に昇進。

なお、第64戦隊は終戦までに計7枚(うち1枚は加藤の個人感状、飛行第2大隊時代を含めると計9枚)と日本軍最多数の感状を拝受しているが、うち3枚はマレー上陸作戦(船団護衛)・パレンバン空挺作戦・ジャワ上陸作戦の活躍によるものであった。

以下の一式戦の戦果は、戦史家梅本弘が日本軍の戦果記録を連合軍の損害記録たる一次史料と照会した「確認が出来た最小限で確実な数字たる戦果」である[1]。第64戦隊・第59戦隊の一式戦は太平洋戦争緒戦の空戦において実質約4倍の数を、対戦闘機戦では約3倍の数の敵機を撃墜した。

1941年(昭和16)12月8日の開戦(マレー作戦開始)から1942年(昭和17)3月9日(蘭印作戦終了)の期間中

第59戦隊・第64戦隊の一式戦は連合軍機61機撃墜(第59戦隊30機、第64戦隊27機、両戦隊協同4機)

撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機43機

さらに蘭印作戦中にバタビア沖上空にて1機のB-17E(フランクリン機長、41-2503号機)を撃墜 [2]


日本軍側の空戦による損害は第59戦隊・第64戦隊計16機喪失(戦死11名・生還5名)

詳細は「一式戦闘機#ビルマ航空戦」を参照

各地を制圧した第64戦隊と一式戦は3月21日からビルマ戦線に転戦、このビルマ航空戦で主にイギリス空軍およびアメリカ陸軍航空軍(初期はフライング・タイガース(AVG)を含む)と交戦し、同月23日には損害無くハリケーン1機を撃墜(第136飛行隊ブラウン少尉機)し同戦線における初戦果を収めている[3]。このビルマ航空戦に第64戦隊および飛行第50戦隊は長期間従軍しまたエース多数を輩出、一式戦を主力とし大戦末期に至るまで連合軍空軍と互角の戦いを繰り広げることとなる[4]
最期

しかし1942年5月22日、第64戦隊が臨時に駐屯していたアキャブ飛行場にイギリス空軍ブレニム1機(第60飛行隊マーチン・ハガード准尉機)が来襲し爆撃。加藤中佐機以下5機が邀撃するも、後上方銃座(射手マクラッキー軍曹)の巧みな射撃により安田義人曹長機・大谷益造大尉機が被弾し途中帰還、さらに1機が最初の近接降下攻撃からの引起し時に機体腹部(燃料タンク部)に集中掃射を浴び発火。この機体こそが戦隊長加藤建夫中佐機であり、ベンガル湾上のため帰還・不時着は不可能と悟った加藤中佐は僚機の近藤曹長機に向けて翼をゆっくり大きくふると、機を左に反転(「自分が無傷で敵地で自爆するのは難しい。超低空で反転操作をすることだ」の日頃の言葉の通り)、背面飛行になって高度200mからビルマ(現・ミャンマー)アンサンヨウ(アレサンヨウ)西方沖約10kmのベンガル湾[5]の水面に炎を噴きながら突入、14時30分に壮烈な自爆を遂げた[6]。なお、イギリス側の文献、ジョン・レーク著『Blenheim Squadrons of World War 2』では、「ブレニムからの連射による被弾によって加藤機のコントロール・ワイヤーが切断、あるいは加藤自身が被弾の際に重傷を負い意識不明となったのではないか」と自爆を否定する見方をしており、戦後の『アニメンタリー 決断』第14話「加藤隼戦闘隊」ではこのレークの説を用いた脚本になっている。

この前日の5月21日、乗機の故障・発火によりコックスバザー南東で落下傘降下した清水武陸軍准尉の捜索・救出を加藤は現地義勇軍に依頼。さらに戦死当日の22日、第64戦隊はこのアキャブ飛行場を引き上げトングー飛行場に転進するため空中勤務者達は身支度を整えていた状態であったが、清水准尉の安否を気遣う加藤は義勇軍からの遅い返答を待ち戦隊のアキャブ出発を見合わせていた状態であった。そのため、加藤が返答を待たずに予定通りアキャブを出発していた場合、ブレニムの攻撃に遭遇することなく戦死を回避できていた可能性がある。実際は、捕虜になっていた清水准尉は「インドのビネカール捕虜収容所にて、海岸に漂着しイギリス軍に回収されていた加藤の手帳を見せられ自責の念にかられ落涙がとまらなくなった」という[7]

享年38。推定総撃墜数は18機以上。
戦死後映画『加藤隼戦闘隊』のポスター

累計6回の部隊感状(加藤を指揮官とする)に加え、改めて1942年5月30日に南方軍総司令官寺内寿一大将から個人感状が授与され、また後には帝国陸軍史上初となる二階級特進および、異例の功二級金鵄勲章拝受の栄誉を受けた。個人感状では「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」と評され、大元帥昭和天皇)の上聞に達し、これによって第64戦隊の戦隊歌の歌詞は「七度重なる感状」となった。

その活躍と、その人格・人徳から部下からは生前から「軍神」と尊敬(そのストイックな武士道から加藤教と呼ぶ者もいた)されていたが、7月22日には陸軍省から正式に「軍神加藤少将戦死」と国民に向けて発表され、23日付の各新聞ではトップ・ニュースとして一面で扱われ一般からも賞賛を得ることになった。朝日新聞では「仰ぐ軍神・加藤建夫少将」の見出しに「前線の加藤少将と新鋭戦闘機「隼」」「建軍以来感状の最高記録」の副題を付け、加藤を「隼」の写真とともに大々的に報道し、7月29日公開日本ニュース第112号「脱帽 感状七度軍神 加藤少将」では、在りし日の映像とともに「帝国陸軍 空の至宝 加藤建夫中佐」と謳い、写真週報8月5日号では「噫々軍神 加藤建夫少将」「双葉より神鷲の面影」、9月16日号では「敵空軍恐怖の的 隼」と特集するなど連日大々的に扱われていた。これによって、加藤は「空の軍神」・「軍神加藤少将」・「隼戦闘隊長」として当時の全国民の知る伝説的英雄となり、また加藤の活躍と相まって、一式戦「隼」は太平洋戦争中の日本軍戦闘機の中でも最も有名な戦闘機として知られることになった。

9月22日、秋雨降る築地本願寺にて陸軍葬が執り行われた。葬儀には近衛師団近衛兵による儀仗に加え、弔辞は参謀総長杉山元大将が奉読、内閣総理大臣東条英機大将をはじめ多くの陸海軍高官らが参列した。その模様は「脱帽 空の軍神 加藤少将陸軍葬」と題し日本ニュース第121号で放映されている。墓所は、旭川市豊岡の愛宕墓地および東京都府中市多磨霊園(遺族は当時小金井市に居住していた)。


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