加藤常太郎
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日本政治家加藤 常太郎かとう つねたろう
生年月日1905年4月30日
出生地 香川県高松市
没年月日 (1990-10-11) 1990年10月11日(85歳没)
出身校奉天外国語学堂支那語科卒業
所属政党(日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
分党派自由党→)
日本民主党→)
自由民主党河本派
称号正三位
勲一等旭日大綬章
親族娘婿・関谷勝嗣(元衆議院議員、元参議院議員)
娘婿・大野功統(元衆議院議員、元防衛庁長官)
孫・大野敬太郎(衆議院議員)
孫・加藤秀樹(元大蔵官僚)
孫・加藤宏一郎(瀬戸内海放送社長)
第34代 労働大臣
内閣第2次田中角栄内閣
在任期間1972年12月22日 - 1973年11月25日
衆議院議員
選挙区旧香川2区
当選回数13回
在任期間1952年10月1日 - 1986年6月2日
参議院議員
選挙区香川県地方区
当選回数1回
在任期間1947年4月20日 - 1950年5月2日
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加藤 常太郎(かとう つねたろう、1905年明治38年〉4月30日[1] - 1990年平成2年〉10月11日)は、日本実業家政治家位階正三位加藤海運社長、宇部工業短期大学初代学長、参議院議員(1期)、衆議院議員(13期)、労働大臣(第34代)。
経歴

香川県高松市出身[1][2]。先代・常太郎の長男として生まれ、襲名する[3]高松商業を経て[3]、奉天外国語学堂支那語科を卒業[1][3]

父が急逝したため、24歳で家業を継ぎ、機帆船を主にした加藤海運社長となる[4]海運業に慣れてくると神戸に乗り出し、小型汽船70隻を統合し、日本近海汽船(現:川崎近海汽船)を設立。代表取締役になった。しかし、太平洋戦争が激しくなったことを受け、会社経営を友人に任せ帰郷した[4]

1947年(昭和22年)の第1回参議院選挙香川県地方区において、日本自由党は適当な候補がいなかったため、県連や三木武吉に出馬を進められ[5]、当選[1][2]。1952年の第25回総選挙旧香川2区にて、自由党衆議院議員に転じ、以来13選[1][2]

1956年(昭和31年)の自民党総裁選では、石橋湛山をかつぎ、見事当選させた立役者の1人である[6]。党では河本派に所属した[1][2]

1972年(昭和47年)第2次田中内閣の労働大臣に就任し[1][2]、1975年秋の叙勲で勲一等旭日大綬章受章[7][8]

1986年(昭和61年)6月引退[2]

1990年10月11日死去、85歳。死没日をもって正三位に叙される[9]
瀬戸内海放送の設立に尽力

平井太郎四国新聞社西日本放送社長)とは、小学校の同級生で、参議院議員になったのは一期早いが次の選挙で平井が当選。加藤は落選の憂き目に遭う。その後、衆議院議員に返り咲いたが、政敵の平井とは何かと因縁が深い[10]。平井が地元に帰ると西日本放送が熱心に報じるのに対し、加藤はまともに取り上げられないことに業を煮やす[10]。国会の逓信委員会に所属して委員長を務め、立法府における郵政・逓信族の実力者となり1967年(昭和42年)、郵政省にねじ込んでテレビ免許を獲得、瀬戸内海放送を設立する[10]。初代社長は弟、次は息子と加藤一族のテレビ局とすることを成功する[10]

地方の放送免許は県単位が基本だが、加藤・平井と電波行政に睨みをきかせる政治家が2人もいる香川県の高松地区は違う[11]1979年(昭和54年)に、瀬戸内海を挟んで岡山・高松地区が一つの区域に合算される準広域地区となり[11]、最終的にテレビ局(香川2局、岡山3局)でパイを分け合うことになった。岡山までエリア、商圏を拡げられたのは、無理筋を通す加藤の政治力によった[11]。瀬戸内海放送の売上は、岡山まで電波が延びたとたん倍近くまで急増した[11]
家族・親族
加藤家
香川県高松市東京都


妻・キヨ(宮武保平次女[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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