加藤喜美枝
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加藤 喜美枝(かとう きみえ、1913年大正2年〉6月18日 - 1981年昭和56年〉7月29日[1])は美空ひばりの母。本名加藤キミ、東京都出身[1]。35年間マネージャーを担当するなど公私ともにひばりを支え、その親密さ、献身性から「一卵性親子」と渾名されたほどだった。
人物

東京・山谷の出身[2]。結婚後は夫である加藤増吉の営む鮮魚店「魚増」の切り盛りと、4人の子供達(後の美空ひばり佐藤勢津子かとう哲也香山武彦)の子育てをしながら主婦業を務めた。

1943年6月、第二次世界大戦に夫・増吉が海軍に出征となり壮行会が開かれ、和枝(後の美空ひばり)は父のために『九段の母』を歌った。壮行会に集まった者達が和枝の歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝は和枝の歌唱力に人を惹き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊から和枝の歌による慰問活動を始めるようになった。 和枝の芸名「美空ひばり」は喜美枝が決定したものである。

沢島忠曰く「娘のためなら、たとえ火の中水の中」ともいうべき人柄だったといい、ひばりの業績における喜美枝の役割は大きかった。一方でひばりと小林旭の入籍に最後まで反対し(喜美枝曰く「人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、人生で一番の喜びは娘が小林と離婚したこと」と公言して憚らなかった)たり、賭博幇助容疑や任侠界との交際など不祥事を重ね世間から問題視されていた哲也の存在が仇になって、全国の公会堂や市民ホールから「弟を出すならひばりに舞台を貸さない」と使用拒否の警告を受けたりするなど喜美枝の信念がトラブルに発展することもあった。



最期

1977年10月、大腸癌で入院・手術し同年11月に退院。その後も入退院を繰り返し闘病生活を送ったが、1981年7月、転移性脳腫瘍のため68歳で死去。法号は寳珠院慈徳日喜清大姉。次女の佐藤勢津子によれば、死の数日前、ひばり、和也(哲也の子でひばりの養子。現ひばりプロダクション社長)、勢津子との4人で喜美枝の車イスを押しながら庭を散策したという。その時の『感謝』という言葉が、喜美枝の最後の言葉となった。

喜美枝出棺の際、ひばりは大きな叫び声をあげながらかまど目掛けて駆け出し母の後を追おうとしたため、参列していた高倉健萬屋錦之介の二人に阻止されたという[3]
脚注^ a b 加藤喜美枝とは - コトバンク
^ 新藤謙『美空ひばりとニッポン人』晩聲社、1998年、16-17頁
^ザ・スター リバイバル』 第4回(BSフジ 2013年11月9日)放送分 加藤和也コメントより










美空ひばり
主なシングル

河童ブギウギ

悲しき口笛

青空天使

東京キッド

越後獅子の唄

私は街の子

ひばりの花売娘

あの丘越えて

リンゴ追分

お祭りマンボ

馬っこ先生/津軽のふるさと

ひばりのマドロスさん

三味線マドロス

波止場だよ、お父つぁん

鼻歌マドロス

初恋マドロス

港町十三番地

長崎の蝶々さん

花笠道中

御存じ弁天小僧

哀愁波止場

ひばりのドドンパ/車屋さん

ひばりの渡り鳥だよ

ひばりの佐渡情話

恋の曼珠沙華

哀愁出船



笑顔と涙の遠い道



夾竹桃の咲く頃

悲しい酒

真赤な太陽

芸道一代

チロリン節

むらさきの夜明け

熱祷 (いのり)

別れてもありがとう

花と炎/人生一路

人生将棋

それでも私は生きている

旅人

ひばり仁義

ある女の詩

一本の鉛筆

ひとりぼっち

月の夜汽車

白い勲章

ふるさと太鼓

雑草の歌

さくらの唄

あやとり

なつかしい場面

海にむかう母/ひとり旅?リンゴ追分?入り

最後の一本

風酒場

子ども会音頭

おまえに惚れた

別れの宿

恋女房

剣ひとすじ

人恋酒

裏町酒場

花のいのち

笑ってよムーンライト

残侠子守唄

冬のくちびる

夢ひとり

しのぶ

愛燦燦

恋港

好きなのさ

みだれ髪

川の流れのように

あれから
詳細は ⇒公式サイトのディスコグラフィーを参照。

主な出演映画

のど自慢狂時代

びっくり5人男

踊る龍宮城

悲しき口笛

憧れのハワイ航路

青空天使

東京キッド

左近捕物帖 鮮血の手型

鞍馬天狗 角兵衛獅子

鞍馬天狗 鞍馬の火祭

陽気な渡り鳥

鞍馬天狗 天狗廻状


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