加藤 初SKワイバーンズでのコーチ時代
(2010年11月13日)
基本情報
国籍 日本
出身地静岡県富士市
生年月日 (1949-12-20) 1949年12月20日
没年月日 (2016-12-11) 2016年12月11日(66歳没)
身長
体重175 cm
72 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1971年 ドラフト外
初出場1972年4月25日
最終出場1990年8月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
吉原市立商業高等学校
富士市立吉原商業高等学校
亜細亜大学(中退)
大昭和製紙
西鉄ライオンズ
太平洋クラブライオンズ (1972 - 1975)
読売ジャイアンツ (1976 - 1990)
コーチ歴
読売ジャイアンツ (1989 - 1990)
西武ライオンズ (1995 - 1999, 2001)
LGツインズ (2002)
La Newベアーズ (2004)
SKワイバーンズ (2005)
LGツインズ (2006)
SKワイバーンズ (2007 - 2011)
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加藤 初(かとう はじめ、1949年12月20日 - 2016年12月11日)は、静岡県富士市出身のプロ野球選手(投手)、野球解説者、野球指導者。 吉原商業高校(1年次は吉原市立、2年次より富士市立)から亜細亜大学に進む。入学早々に膝を悪くし、実家近くの信頼ある鍼灸医の治療をうけ回復した。その帰京の際、亜細亜大学を中退した友人宅へ途中下車して寄り、一泊の予定だったが大学でのシゴキがあったことから三週間も滞在してしまい、復学しづらくなって入学後3ヶ月あまりで中退した[1]。 社会人野球の大昭和製紙へ入社し、4年目にエースとして第42回都市対抗野球大会へ出場。秋の日本産業対抗野球大会では優勝候補の熊谷組を1安打完封して優勝に貢献した[1]。この活躍により、巨人、中日、ヤクルト、南海、東映、西鉄らのスカウトが訪れたが、大昭和製紙には前年の都市対抗優勝投手の安田猛がおり、会社側が「同時に投手2人は出せない」とプロ側へ表明。1971年のドラフト会議では安田のみが指名され、加藤は指名されなかった[1]。どうしてもプロへ行きたかった加藤はドラフトの数日後、野球部長や社長に辞表を提出するも不受理となり、喧嘩別れのようにして退社。直後、西鉄スカウトの浦田直治が加藤を訪ね、ドラフト会議のリストアップ表を見せた。一番上に加藤が書かれていたが、大昭和製紙の意向で指名を断念し、二重線で名前を消したことを説明した[1]。後にプレーすることになる巨人からも誘いがあったが、高評価であったことがうれしかったこと、当時弱小だった西鉄の方が登板機会が多いだろうと考えて西鉄を選んだ[1]。 1971年、ドラフト外で西鉄に入団。当時の西鉄は黒い霧事件のために主力投手が数多く退団して戦力が大きく落ちていた頃で、稲尾和久監督と河村英文ピッチングコーチは新人の加藤を東尾修とともに先発ローテーションの柱として起用した。 1972年にいきなり17勝を挙げ、同年のオールスターゲームにも選出、新人王に輝いた(記者投票では195票中194票という圧倒的な支持を得た)。1965年オフにドラフト制度が始まって以降、ドラフト外入団の選手が新人王に選出されたのは加藤が最初であった。以後、身売りするなど経営に苦しむライオンズで東尾とともに投手の二本柱として活躍。 1976年、関本四十四・玉井信博とのトレードにより伊原春樹とともに巨人へ移籍。
経歴
プロ入り前
現役時代