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加藤 典洋
(かとう のりひろ)
誕生加藤 典洋(かとう のりひろ)
1948年4月1日
山形県山形市
死没 (2019-05-16) 2019年5月16日(71歳没)
東京都
職業文芸評論家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京大学文学部フランス文学科卒業
活動期間1984年 - 2019年
ジャンル文芸評論
主題日本の戦後・現代文学
代表作『アメリカの影』(1985年)
『日本風景論』(1990年)
『敗戦後論』(1997年)
『戦後的思考』(1999年)
『テクストから遠く離れて』(2004年)
主な受賞歴新潮学芸賞(1997年)
伊藤整文学賞(1998年)
桑原武夫学芸賞(2004年)
デビュー作『アメリカの影』(1985年)
影響を受けたもの
中原中也
鶴見俊輔
江藤淳
吉本隆明
影響を与えたもの
白井聡
東浩紀
ウィキポータル 文学
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加藤 典洋(かとう のりひろ、1948年(昭和23年)4月1日 - 2019年(令和元年)5月16日[1])は、日本の文芸評論家、早稲田大学名誉教授。講談社ノンフィクション賞、小林秀雄賞選考委員。
『「アメリカ」の影』(1985年)で注目される。文学、政治、歴史認識と広く戦後日本の社会を独自の視点で考察。著書に『敗戦後論』(1997年)、『日本の無思想』(1999年)、『言葉の降る日』(2016年)、『敗者の想像力』(2017年)などがある。 山形県山形市出身。山形県立山形東高等学校を経て、1972年東京大学文学部仏文学科を卒業。1985年に『アメリカの影』でデビューする。 雑誌『思想の科学』に1980年代からかかわり、第八次『思想の科学』(1993-1996)の編集委員をつとめた[2]。 現代文学・思想史・政治・歴史認識と幅広く発言。2019年5月16日に肺炎のため死去した[1]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
来歴・人物
職歴
国立国会図書館職員(1978年から1982年はモントリオール大学東アジア研究所に派遣)
1986年 - 明治学院大学国際学部助教授
1990年 - 2005年3月 同 教授
2005年4月 - 2014年3月 早稲田大学国際教養学部教授
受賞歴
1997年、『言語表現法講義』で第10回新潮学芸賞。
1998年、『敗戦後論』で第9回伊藤整文学賞評論部門。
2004年、『テクストから遠く離れて』と『小説の未来』で第7回桑原武夫学芸賞。
エピソード
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1995年に『群像』誌上で「敗戦後論」を発表。日本の戦後をどう認識するかを問いかけた。日本の侵略や植民地支配によるアジア地域等の被害者に謝罪する主体、すなわち「日本人」という主体が欠如しつづけているという議論を展開した。そのうえで、具体的方策の一つとして、日本人に対する日本人自らによる弔いの必要を唱えた。これらは歴史認識に於いて右派のそれと真っ向から対立しており、強い批判を受けた。一方高橋哲哉などの左派からも戦後清算の方法論がナショナリズム的に過ぎるとして批判を浴び、言論界に論争を巻き起こした。1997年には論考をとりまとめ加筆訂正のうえ『敗戦後論』を刊行した。2007年5月には、憲法記念日を直前にして、憲法「選び直し」の論をさらに深めた論文「戦後から遠く離れて」を『論座』6月号に発表している。
『日本の無思想』は丸山眞男の『日本の思想』、『テクストから遠く離れて』は蓮實重彦の『小説から遠く離れて』のパロディである。
漫画『寄生獣』を大学のテキストに使用していたが、漫画論は書いていない。
ゴジラの大ファンで、語らせると止まらない。
奥田民生やスガシカオらのファン。特に奥田はJ-POPに関心を持つようになったきっかけを与えてくれたシンガーソングライターと述べている[3]。
小説家の高橋源一郎や文芸評論家の神山睦美と親交が深かった。
英語は苦手で、早稲田大学国際教養学部に赴任する前に、学生と一緒になってアメリカで英語の猛特訓を受けた。
ポストモダン系の思想家(柄谷行人や浅田彰等)に対しては、西洋思想の輸入者であり独自性がないとして、かなり批判的であった。
晩年は同様にポストモダニズムの思想を批判している哲学者竹田青嗣に共通する思索活動を展開していた。
2010年よりニューヨーク・タイムズで記事を執筆していた。
著作
単著
『アメリカの影』(河出書房新社 1985年)、講談社学術文庫 1995年、講談社文芸文庫 2009年