加藤 三郎(かとう さぶろう、1948年7月25日 - )は、日本の新左翼の元活動家。東アジア反日武装戦線などの影響を受け1970年代に闘争を実行。インドの神秘家のOsho(バグワン・シュリ・ラジニーシ)に弟子入りし「スワミ・プレム・デバム」となった。目次 1948年、天理教の教会を営む両親の元に生まれた。幼少時より教義に親しみ、弱者のために生きていく価値観を育んだ。1964年、高等学校に入学すると、「生きることの意義」を見い出すために文学に傾倒した。 高校3年生の時、小田実のベ平連参加を呼びかけに触れ、「名古屋ベ平連」に参加。高卒後は、アルバイトをする中で、多くの在日韓国・朝鮮人と知り合い、日本の民族問題に関心を持った。1969年より美濃加茂市を拠点に4月「みのかもベ平連」。ヴィルヘルム・ライヒの影響を受け、コミューン志向を強めた。 1970年頃から、朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』や太田龍の著書を読んで、「日本帝国主義の悪行」を知り、反日主義思想を培った。 坂上田村麻呂の墓や明治天皇の関連施設にペンキで落書き。坂上田村麻呂は「桓武期の蝦夷侵略軍の総大将」、明治天皇は「アイヌモシリを侵略した天皇」というの理由であった。 1978年の正月1978年1月1日に潜伏先のアパートで誤爆、心は深い傷を負った。 この誤爆事件以降、爆弾闘争は止め潜伏生活をおくった。潜伏中、以前愛読していたライヒの著書を再読していくうちに「反日思想」からの離脱を自覚するに至った。 そしてある書店で『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジニーシとの対話 ダルシャン日誌』という本が目に入った。この本はインドの神秘家ラジニーシが弟子や訪問者の質問に回答していく宗教書であった。加藤はラジニーシ思想に感化され、遂にラジニーシのサニヤシン(弟子)になることを決意し、「スワミ・プレム・デバム」の瞑想名をもらうことになった。 1983年5月、Osho(バグワン・シュリ・ラジニーシ)のペンダントを身に付けて合掌し、瞑想者として登場した。1988年 論考とエッセイで「思想の科学賞」を受賞1992年 思想の科学社より著書『意見書』を出版1992年 東本願寺において、加藤三郎の大師堂爆破の問題提起に応えるため「アイヌと共に民族差別を考える宗教者の会」発足。[1] 2002年12月以降、中部地方在住。 [脚注の使い方]
1 出生と少年時代
2 ベ平連に参加
3 思想との出会い
4 活動の開始
5 反日思想からの離脱とラジニーシとの出会い
6 その後
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
出生と少年時代
ベ平連に参加
思想との出会い
活動の開始
反日思想からの離脱とラジニーシとの出会い
その後
脚注
^ 長澤靖浩 (2004). 魂の螺旋ダンスp160. 第三書館
参考文献
加藤三郎『意見書 「大地の豚」からあなたへ』思想の科学社、1992年
関連項目
ノンセクト・ラジカル
アイヌ革命論
日本原住民論
外部リンク
更新日時:2020年11月27日(金)10:41
取得日時:2021/03/01 11:15
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