日本の政治家加藤 シヅエ
1932年撮影
生年月日1897年3月2日
出生地東京市本郷区西片町
(現:東京都文京区)
没年月日 (2001-12-22) 2001年12月22日(104歳没)
死没地東京都文京区
出身校バラード・スクール
前職日本産児調節婦人連盟会長
所属政党日本社会党(1946-51)→
右派社会党(1951-55)→
日本社会党(1955-79)
称号勲二等宝冠章(1970年)
勲一等瑞宝章(1975年)
従三位(2001年)
配偶者石本恵吉
加藤勘十
親族鶴見祐輔(叔父)
参議院議員
選挙区全国区
当選回数4回
在任期間1950年6月4日 - 1974年7月7日
衆議院議員
選挙区東京都第2区(大選挙区)→
東京都第2区
当選回数2回
在任期間1946年4月10日 - 1948年12月23日
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加藤 シヅエ(かとう シヅエ、旧姓:広田静枝、1897年〈明治30年〉3月2日 - 2001年〈平成13年〉12月22日)は、日本の政治家。元華族。婦人解放運動家・産児制限活動家。称号は東京都名誉都民[1]。位階は従三位。 1897年(明治30年)3月2日、東京府東京市本郷区西片町(現・東京都文京区西片)に生まれる。父の廣田理太郎は、英語に堪能で、イギリスやアメリカと手広く貿易を行う実業家であり、廣田家は非常に裕福な家庭であった[2]。母の敏子(鶴見良憲長女)もカナダのミッションスクールで進歩的な教育を受けていた。そんな東京都心の裕福なブルジョア家庭に生まれたシヅエは、日本文化・西欧文化の両方に接して育つ[3]。女子学習院中等科に進学。同級生にタレントで自民党参議院議員の藤原あきがいた[4][5]。 1914年、女子学習院卒業。当時17歳であった静枝は、卒業直後27歳の華族・石本恵吉男爵(石本新六男爵令息)と結婚、これにより男爵夫人となる。男爵はキリスト教的ヒューマニズムに傾倒しており、リベラルで社会運動に熱心であった[6]。男爵は三井財閥系の三井鉱山に在籍しており、労働者の実態調査で福岡県の三井三池炭鉱へ赴任する。新婚早々炭鉱町に移り住むことになり、悲惨な炭鉱労働者の生活を知る。その後、夫妻は神奈川県鎌倉市へ転居する。当時のロシア革命の影響を受け、マルクス主義、社会主義に感化され労働者の改善が必要であると確信する[6]。 夫の石本男爵が労働問題の研究でアメリカへ渡ると、夫の後を追い二人の幼子を母親の実家に預け、1919年2月に22歳で渡米。サンフランシスコまで渡航しそこからニューヨークまで外遊した。夫は国際労働機関の日本加入のコンサルタント、通訳のためワシントンD.C.へ去ったため職業婦人になることを勧められ、ニューヨークのバラード・スクールで学びながら低所得者アパートメントで一人暮らしをする[3]。後に秘書学コースを優等で卒業する。その頃から、周辺の社会主義者らと親交を持つようになり、後に中国革命軍に同行し世界に名を馳せたジャーナリストのアグネス・スメドレーを介して貧民街での産児調節運動を啓蒙するマーガレット・サンガーと出会う。妊娠と堕胎から女を守るというサンガーの思想が炭鉱町にも必要であることを痛感し、望まない妊娠の悲劇を防ぐために日本での運動を決意する[3][7]。シヅエはサンガーとこの後も親交を持ち、「生涯の師」として仰いでいた。 帰国直後、1922年に社会運動に理解のあった夫と共にマーガレット・サンガーの来日を接待と通訳を務める。この時講演会などを大々的に行い、これを機に日本での産児調節運動をスタートさせた。母体保護の重要性を説くだけでなく、当時流行していた優生学的な「不良な子孫の出生の防止」を訴えた[8]。 1931年に日本産児調節婦人連盟
生い立ち
来歴1914年撮影石本男爵夫人時代のシヅエ。1930年
アメリカ移住
産児制限運動1922年に訪日したマーガレット・サンガーとともに
1944年3月に別居中だった夫と離婚が成立し、同年11月労働運動家の加藤勘十と結婚。
1945年3月30日、48歳で長女の多喜子を出産した。
国会議員として婦人民主クラブの中心メンバー(1946年撮影)。前列左から一人おいて、加藤シヅエ、厚木たか、宮本百合子、佐多稲子、櫛田ふき、羽仁説子。後列左から一人おいて、関鑑子、藤川幸子、山室民子。1963年12月11日、衆参婦人議員懇談会が参議院の議長公邸で開かれた[9]。前列左から、粟山ひで、戸叶里子、本島百合子、山口シヅエ。