加藤の乱
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河東の乱」とは異なります。
中心人物の加藤紘一(1985年)中心人物の山崎拓(2005年)

加藤の乱(かとうのらん)は、2000年11月第2次森内閣打倒を目指して、与党自由民主党加藤紘一山崎拓らが起こした、一連の倒閣運動
概要

2000年(平成12年)11月20日衆議院本会議に向けて、野党森内閣不信任決議案を提出する動きを見せると、加藤紘一(宏池会会長)とその同志の国会議員が、賛成もしくは欠席すると宣言した。これに加藤の盟友である山崎拓(近未来政治研究会会長)が山崎派として同調する構えを見せた。

当時、衆議院の議席は与党が480人中272人を占め、過半数より31人上回っていたが、衆議院の加藤派45人と山崎派19人の計64人が造反をすれば内閣不信任案が可決され、森内閣は内閣総辞職衆議院解散を余儀なくされる。この発言は、加藤派の自民党からの独立、政界再編など様々な憶測を呼んだ。

党幹事長野中広務による党内引き締めにより加藤の企図は失敗したが、自民党内の混乱は森政権の凋落に一層拍車をかけることになった。

当時、加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎の3人は、自民党次世代のリーダー候補と言われ「YKKトリオ」と呼ばれていたが、この件で加藤・山崎は大きな打撃を負い、結果的に翌年春の自民党総裁選において小泉純一郎が当選する伏線となった重大な党内内紛であったと評されている。
遠因

加藤と山崎は、それぞれが所属する派閥を継承し、総裁候補としての実績を着々と挙げていた。1999年自由民主党総裁選挙に出馬するも、事前の予想通り現職の小渕恵三に敗れた。しかし、あくまでも総裁選出馬を試金石と位置づけていた加藤と山崎に対し、無投票での再任を願っていた小渕は、2人が総裁選に出馬したことに激怒した。また、加藤が小渕に政策論争を挑んだことも小渕の逆鱗に触れた。温厚な人柄で通っていた小渕であったが「あいつは俺を追い落とそうとした」と加藤・山崎派を徹底的に干していく。非主流が干されることは政争の常であるが、小渕の対応は従来の処遇の範疇を超えていた。小選挙区制導入により、徐々に執行部の権力が強くなっており、非主流派の立場は一層厳しいものとなった。

当時の加藤は、改革派のイメージが強く(小渕とは財政に関して決定的に政策主張が違い、財政健全派や市場主義派に支持されていた)、首相になってほしい政治家ランキングなどにも上位に名前を出していた。また、党内で2番目の勢力を持つ派閥で保守本流である宏池会の会長や、「YKKの長男」として総裁候補の最有力と認識されていた。しかし、非主流派が干され続け、活路が見出せない中で小渕が急逝し、いわゆる五人組によって不透明な形で森総理が誕生する。

小渕再選前の政界では、加藤がポスト小渕の一番手であると衆目が一致していた。保守本流の派閥の長、橋本・小渕政権誕生への協力、幹事長としての新進党切り崩しなどの実績があったためである。しかし、当時の加藤は、小渕派(旧竹下派・田中派)に担がれる形での首相就任を拒んでいた。YKKとしての反竹下派の源流、宮澤内閣の竹下派(金丸)影響下の政権二重構造への反発などからである。しかし、自身が望む就任の形にこだわるあまり、その実現が遠のいていた。森との争いに後れをとった加藤の焦りが極まる一方で、森内閣は、神の国発言中川秀直内閣官房長官のスキャンダルによる辞任などにより、内閣支持率は低迷を続け、不人気がピークに達していた。

支持率が低い森内閣のままで2001年参院選に突入すれば、自民党が惨敗することが予想された。自民党が敗北した1998年参院選での非改選議員と合わせて、与党における参議院議席数の過半数割れ(ねじれ国会)までもが懸念されていた。一時は執行部も、加藤・山崎を主流派に取り込もうとし、森内閣においては、前回人事での加藤派・山崎派の要望であった小里貞利の総務会長起用や、保岡興治入閣を実現させた。


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