加茂周
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加茂 周

名前
カタカナカモ シュウ
ラテン文字KAMO Shu
基本情報
国籍
日本
生年月日 (1939-10-29) 1939年10月29日(84歳)[1]
出身地兵庫県芦屋市
身長178cm[2]
選手情報
ポジションFW[2]
ユース
1961-1965 関西学院大学
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1965-1967 ヤンマーディーゼル 14 (1)
監督歴
1974-1989 日産自動車
1991-1994 全日空 / 横浜フリューゲルス
1994-1997 日本代表
1999-2000 京都パープルサンガ
2007-2009 関西学院大学
1. 国内リーグ戦に限る。2012年12月22日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

加茂 周(かも しゅう、1939年10月29日 - )は、兵庫県芦屋市出身の元サッカー選手、サッカー指導者である。

長兄の加茂豊は毎日放送元社員でゴールキーパーとして1958年アジア大会で日本代表に選出された経験を持ち[3]、弟の加茂建加茂商事サッカーショップ加茂を展開、傘下にジャパン・スポーツ・プロモーション、ソル・スポーツマネージメント)の社長である。

なお、1936年ベルリンオリンピックサッカー日本代表加茂健加茂正五との血縁関係はない[4]
来歴

関西学院大学卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)での選手生活を経て、1967年に指導者に転じた。1974年に日本人初のプロ契約監督[5]として日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)の監督に就任。新興クラブを日本サッカーリーグ1部優勝1回、JSLカップ優勝1回、天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝3回の強豪に育てあげた。日産では監督という枠に収まらない、組織づくりや環境整備といったゼネラルマネージャー的な手腕も高い評価を受けた[6][5]。またウィングだった木村和司をMFとして、MFだったロペスをFWに起用し覚醒させるなど、選手の適材適所を見抜きコンバートさせる眼にも長けていた。1993年度に横浜フリューゲルスで天皇杯に優勝した後、1994年12月から1997年10月までサッカー日本代表監督を務めたが、1998 FIFAワールドカップ・アジア最終予選の途中で更迭された。
人物
少年時代

男4人兄弟の三男として大阪府豊中市に生まれる[7]。「周」という名前は、生まれる直前に、毎日新聞社が後援する飛行機「ニッポン号」が世界一周を達成したことにちなむ[7]。父の加茂勝雄は毎日新聞の政治部記者だった[7]。勝雄は毎日新聞東京本社編集局次長兼整理部長の1944年に、戦後竹槍事件と呼ばれる新名丈夫の戦局解説記事を最初に閲覧、事件の責任をとって一時期役職を離れることになった。大阪で生まれた後、父の仕事の都合により東京、新聞社追放時には父の実家がある茨城県古河市、復職後は毎日新聞社西部本社がある福岡県門司市(現・北九州市門司区)を転々とし、1949年に兵庫県芦屋市に落ち着く[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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