加納久宜
[Wikipedia|▼Menu]

日本政治家加納久宜かのう ひさよし

生年月日1848年4月22日
出生地 日本 江戸
(現東京都
没年月日 (1919-02-26) 1919年2月26日(70歳没)
死没地 日本 大分県別府温泉
前職東京控訴院(現東京高等裁判所)検事
所属政党無所属
称号藍綬褒章
勲二等瑞宝章
旭日中綬章
正三位
勲五等瑞宝章
配偶者有
子女次男・加納久朗
親族娘婿・阿野季忠(貴族院議員)
娘婿・後藤文夫(内務大臣)
孫・麻生太賀吉(衆議院議員)
曾孫・麻生太郎(内閣総理大臣)
曾孫婿・橋本龍太郎(内閣総理大臣)
玄孫・橋本岳(衆議院議員)
貴族院議員
在任期間1890年7月10日 - 1897年7月10日
1904年7月10日 - 1919年3月2日[1]
一宮町長
官選 第6代 鹿児島県知事
在任期間1894年1月20日 - 1900年9月8日
テンプレートを表示

加納 久宜(かのう ひさよし、嘉永元年3月19日1848年4月22日) - 大正8年(1919年2月26日)は、幕末上総国一宮藩主、明治大正時代の政治家。帝国議会、地方行政はもとより、教育、司法、農業などの産業振興、産業組合運動、地方改良運動、赤十字、競馬界など、多方面で活躍した[2]
公職等の概略

貴族院議員鹿児島県知事(「教育知事」「勧業知事」「行脚知事」)、千葉県一宮町長。


文部省督学局中視学、石川県師範学校などを学事視察。華族学校(現学習院)を建議。岩手県盛岡師範学校初代校長。新潟学校校長。


大審院検事


入新井村学務委員。入新井信用組合(現城南信用金庫)設立。産業組合中央会副会長。大森倶楽部会長。


日本体育会(現学校法人日本体育大学)会長、日本体育会体操学校(現日本体育大学)校長。荏原中学校(現日本体育大学荏原高等学校)設立・初代校長。


全国農事会幹事長、帝国農会初代会長。日本競馬会創設に尽力。「日本農政の父」と仰がれる。


地方改良運動に尽力。地方改良講習会の臨時講師。


日本赤十字社監事。


十五銀行取締役、房総中央銀行取締役、他。


官位は従二位勲二等子爵遠江守。

経歴
幼少期

嘉永元年(1848年)、立花種道下手渡藩(筑後三池藩)主・立花種周の五男)の次男として江戸藩下屋敷で生まれる[2][3]。幼名は嘉元次郎。

安政2年(1855年)の安政江戸大地震で、本所五ツ目(現在の東京都江東区)にあった下屋敷が倒壊して下敷きとなり、自身は助けだされるが、瓦礫と猛火により両親と住まいを失う。宗家立花氏の養子に入っていた深川の実兄・立花種恭(幼名:鐘之介)に引き取られる[3]。兄・種恭から読書・習字・弓術の指導を受けるとともに、剣術は小谷精一郎、馬術は大坪本流磐井槍吉の指南を受けた。フランス公使レオン・ロッシュの支援を受けながら老中格で幕閣参政として軍制改革に取り組む、兄の影響を受けて[3]フランス兵学に興味を持ち、佐久間象山の高弟・蟻川功に師事して兵学を学ぶ。
一宮藩主

慶応2年(1866年)、上総一宮藩主・加納久恒が急死したのを受けて急遽養子となり、19歳で藩主となる。新政府軍は主にイギリスから、列藩同盟軍は主にプロイセンから、軍事教練や武器供与などの援助を受けていたこともあり、国入り早々近習の侍を集めてフランス式操練を行った。戊辰戦争当初は藩兵を率いて海路出陣するも、遠州灘時化に遭遇。伊豆下田から陸路を目指すが鳥羽・伏見の戦いには間に合わず、名古屋将軍慶喜江戸帰還の報を受けて撤退。明治元年(1868年)に新政府軍に恭順した[3]

明治2年(1869年)には関東の列藩の中でも率先して版籍奉還の県議を太政官代に奉呈した。奉還後は一宮藩知事となり、廃藩置県で免職となる[3]
教育界・司法界での活躍

加納は欧米への留学を強く希望しており、大学南校東京大学の前身、後の開成学校)に開校と同時に入学してフランス語など西洋の社会・人文諸学を学んだが、周囲の反対により断念した[3]

明治6年(1873年)、辻新次の勧めにより文部省督学局に出仕して、従来の士族中心の教育から脱却した近代教育を指導。明治9年(1876年)に、兄の立花種恭や立花鑑寛(元柳河藩主)とともに学校建設の建議と英国貴族の子弟教育を範とする「家族学校設立大意」を提出した(校名は学習院となる)[3]

文部省退任後、岩手県令の島惟精に願い出て岩手県師範学校初代校長(岩手県学区取締総監督兼務)に就任。明治12年(1879年)に全国一の規模を持つ新潟学校校長を務める。同校は生徒が学校当局に抵抗し久しく校長が置かれない問題校であったが、加納は「もし君たちが非理の挙を敢て行い、不法の行動をとり、学生の本務を誤る場合には、予は教育会の名誉のために、四〇〇人や五〇〇人程度の学生を放逐するくらいのことは朝飯前の仕事に過ぎないと覚悟している」と訓示し、校風の刷新を図った。また自ら国語教材や辞書の編纂に携わり、県内初の学校併設図書館の設置などを精力的に行った[3]

明治14年(1881年)には司法界に転じて熊谷始審裁判所長[注釈 1]大審院検事東京控訴院検事などを務める。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef