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加瀬 邦彦
生誕1941年3月6日
日本・東京府
死没 (2015-04-20) 2015年4月20日(74歳没)
日本・東京都港区
学歴慶應義塾大学卒業
ジャンルJ-POP・グループ・サウンズ
職業作曲家・音楽プロデューサー
担当楽器リードギター
活動期間1961年 - 2015年
共同作業者ザ・ワイルドワンズ
公式サイト ⇒加瀬邦彦オフィシャルブログ
著名使用楽器
ヤマハ・SG-12A
加山雄三、ビートルズ
加瀬 邦彦(かせ くにひこ、1941年3月6日 - 2015年4月20日[1])は、日本の作曲家、音楽プロデューサー。 1957年11月、慶應義塾高等学校1年生の時、東京都から神奈川県茅ヶ崎市に転居したが、これが縁で同年12月23日にアメフト部の先輩の紹介により俳優上原謙のクリスマス・パーティーに誘われ、当時慶應義塾大学2年生だった加山雄三に出会い、音楽面のみならずプライベートでも親交を深めるようになる。 慶應義塾大学法学部政治学科在学中の1961年に、初めてのバンド「ザ・トップビーツ」を結成する[2]。その後ホリプロに所属し、清野太郎、かまやつひろしらとバンド「キャノンボール」を結成[2]。1963年には事務所の指示により、かまやつと共にザ・スパイダースに加入するも、寺内タケシの誘いで約3か月後に脱退し、寺内タケシとブルージーンズに加入した[2]。 1966年、ビートルズの来日公演でブルージーンズが前座を務めることになったが、警備上の措置として、前座のバンドは演奏終了後、楽屋に監禁され、ビートルズを見ることや演奏を聴くことが出来ない状態になっていたため、客席からビートルズを見たかった加瀬はブルージーンズを脱退した[3]。 所属していたホリプロはそれでも、加瀬を引きとめ給料を支払い続けていたが、「タダで給料をもらうのも申し訳ない」と同年7月に、加山が名付け親となるザ・ワイルドワンズを結成、渡辺プロダクションに移籍する。得意の12弦ギター(ヤマハ特注)は、ワイルドワンズ・サウンドの要となる。解散後は、作曲家としてだけでなく、沢田研二の音楽プロデューサーとなり、全盛期の沢田を支えた。 1981年1月、日本劇場取り壊しに伴う最後の日劇ウエスタンカーニバルにザ・ワイルドワンズ(加瀬、鳥塚繁樹、島英二、植田芳暁、渡辺茂樹)のメンバー5名が集結して出演したことを契機として、ザ・ワイルドワンズの再結成話が持ち上がり、仕事の都合で参加を辞退した渡辺を除くメンバー(加瀬、鳥塚、島、植田)4名でザ・ワイルドワンズを再結成した。
経歴・人物